日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(5)
5.
Efforcez-vous d’entrer par la porte étroite.(Luc, XIII, 24)という銘が題名を直接指示してしまうという率直さ。だが一方で「狭き門」の コノテーションは極めて広大である。ドストエフスキーとカフカはジッド自身が参照しているから、カフカの「審判」「掟の門前」はどうしても 浮かび上がって来る。カネッティの説自体は受容し難いとしてもなお、フェーリツェ・バウアーとカフカ自身の関係が「審判」とある種の構造的な 対応を示している(お互いがお互いの変換された像の如き関係にある)とするならば、そして寧ろカネッティに抗して、カフカにとっての「門」 とは何であったかについて考えるならば、それがアリサにとっての「門」と対比して論じることができるような構造上の位置づけを持っていることが わかるだろう。であるとすれば、そのカフカの「掟の門前」「審判」を扱ったデリダの「掟の門前」論、更にはデリダもまた言及する、 カントの「実践理性批判」の末尾に登場する「狭き門」を経て、ゴロソフケルとは二重の意味で逆向きに(一つは自明だが、もう一つの方は、 純粋理性批判のアンチノミーでなく、ここでは実践理性批判におけるアンチノミーの方からアプローチすることになるからだが)ドストエフスキーに 到達することができるだろう。(ヤコブの天使との格闘との対比。ここでは闘争は一見したところなさそうに見える。だがそれは見せかけだ。 問題は寧ろ、その闘争が何を目指してのものかという点に存するのでは?再び門を閉ざしたのは誰か、門は本当に閉じたのか?門の向こうには 何があるのか?門の向こうに何があるかが問題なのか、それとも門を通過すること、あるいは力学的な軌道の方程式の特性が問題なのか?etc.)
「狭き門」の門はルカ伝第13章24節から採られており、作品中でも冒頭の第1章で、この物語の発端となるアリサの母、ジェロームにとっては叔母にあたる リュシル・ビュコランの出奔があった直後の教会での礼拝における説教で取り上げられた部分として参照されることになる。 「狭き門」で思い出される参照点として、カフカの「審判」の中に埋め込まれた「掟の門前」の物語がある。それを生きたままくぐることはできないのに、それは まさにその人のためだけに用意された門。アリサの軌跡をカフカ的な文脈で解釈してみる必要があるかも知れない。いずれにせよ、そこに門がある。 そのままの姿では通り過ぎることの出来ない門、通り過ぎたら二度とこちら側に戻ってくることができない門、つまり或る種の相転移が生じる臨界点なのだ。
もう一つの門。一見したところ、カトリックへの改宗という外部的な一致から、寧ろ「田園交響楽」との対比が適当のようにも見える。
門の通過。クリプトへの下降。ランプ。扉。待機。仮面をつけた一人の男。カトリック。「狭き門」の末尾、過去を封印したクリプトのような部屋。ジュリエットは、 だが、ここでは逆向きに部屋を出ようとして挫折する。書き手=老いたジェロームは部屋に留まっている。(この出来事を1年前に起きたこととして語っている ジェロームは、今、どこでこの物語を書いているのか?「田園交響楽」は手記であり、しかも第2部では時間が同時性に収斂し、末尾の「砂漠」に至って時間は 停止するのに対し、「狭き門」の時間は、トーマス・マンが「魔の山」の序で語ったように、それ自体が絶対的な過去に属している。日記は寧ろ、その 過去の記録、歴史的な文献資料の如きものだし、「狭き門」という物語自体、1人称視点で書かれていることによって、小説的な体裁を拒絶し(彼にとっての 小説は「贋金作り」のようなものだったようだが、そのこと自体が、マンやドストエフスキー、カフカに比べ、ジッドの辿った経路の不毛を、その作品自体に よって告げているのだが)、歴史的事実の証言といった事実性を仮構しようとしているかに見える。それは独立することなく、第1章の冒頭に直接置かれた、 筆者の言葉(D’autres en auraient pu faire un livre ; mais l’histoire que je raconte ici, j’ai mis toute ma force à la vivre et ma vertu s’y est usée. J’écrirai donc très simplement mes souvenirs, et s’ils sont en lambeaux par endroits, je n’aurai recours à aucune invention pour les rapiécer ou les joindre)が、その置かれた位置そのものによって証言している。 (もし仮にこれに更に序文をつけるなら、物語の全く外側から、第3者の手によって書かれるものになるだろう。例えば物語自体の語り手である ジェロームが名付け親となったジュリエットの末娘のアリサによって書かれるものになるだろう。)