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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(3)

3.

であってみれば、新庄嘉章の解説もまた的外れに感じられる。ここにカトリック批判があるか?ジェルトリュードがカトリックに改宗していなければどうだったというのか? 「すべては許される」とでもいうのか?ここでは対抗すべきプロテスタンティズム自体が不在なのだ。在るのは(恐らくジッド自身が実践し、だが、 自分自身、それに説得されることが決してなかった)恣意的な聖書解釈だけだ。そこにあるのは卑劣で醜悪な自己正当化の具と化した 見せかけの信仰だ。ジッドはその限界を、無力を、虚偽を自覚していたから、或る種の懺悔のドキュメントとしてこれを書いたのだとでも考えなければ、 こんな醜悪な心理を綴った手記を小説に仕立てることに意義を見出すことは困難だ。

もしかしたら、最後に出てくる砂漠に、背徳者ミシェルが彷徨ったそれを見出し、或る種の回帰を見出す者がいるだろうか?更には、その砂漠を肯定的なものと 見做し、この作品を登ったら捨てる梯子と見做す者がいるだろうか。私とて、この話は登場人物の誰に対して思い入れがあるわけではないが、 その背後にある構造についての恣意的な解釈は許容さるべきではないと考える。少なくとも牧師は、己の信念に従って、確信犯的にジェルトリュードを死に 追いやったわけではない。寧ろそれは、意に反して起きたのであり、盲目さ故の過失を責めることはできても、未必の故意すら認めることはできないだろう。

同様に、聖書の自由解釈とカトリックの対立(決して、プロテスタントとカトリックの対立ではない)が父と子の一人の女性を巡っての争いという 一見するとエディプス的な構図にはめ込まれている点については、実はジャックはいわゆる分身に過ぎず、それは牧師自身の内的な対話を 物語的に偽装したものに過ぎない。最後のジャックの言葉、– Mon père, m’a-t-il dit, il ne sied pas que je vous accuse ; mais c’est l’exemple de votre erreur qui m’a guidé. 及びジャックに対する往生際の悪い牧師の批判 Mais je me persuade que dans la conversion de Jacques entre plus de raisonnement que d’amour. は、 この物語の結末にとって破壊的な効果を持つ。ここにカトリックへの批判、それがジェルトリュードを死に追いやったと言わんばかりの自己弁明、 牧師の言い逃れを見出す人は、これを持って、問題は解決されていないと決め付ける。言ってみればジッドの注文にあっさり乗って、ジャックもまた盲人で あったのではないか、問題は解決していないなどという解説を書く読み手こそ、ジッドと共に歩む盲人なのではないか。実際には解決しない理由は別にあるのは明らかで、 まだ牧師は己を蝕む自己欺瞞から自由になれていないということに過ぎない。要するに、彼の言うそのamour が偽りであること自体が問題を惹き起こしていること、 しかしそれに結末に至っても気付かないことが問題の解決を妨げているのは明白であろう。彼の砂漠は、そうした心的機制がもたらしたものに過ぎないし、 その尻馬に乗って、そこによりによって誠実さを見つけて賞揚しかねない解説者もまた、結局のところ、何が問題であったかに気付こうとせず、 問題を解くことを無意識の裡に回避して、自らの姿勢を弁護しているに過ぎない。

いずれにしても、ジッド自身の聖書の恣意的な解釈への自己批判を読み取ることが出来たとしても、それをプロテスタンティスムの 伝統に位置づけることなど出来まい。この書物がカトリック批判になっているといった類の、日本において流布している解説は信じ難いものと 言うほかない。罪を問題にするのはカトリックのみではないはずだ。パウロ主義ということで言えば、カルヴァンはどうなるのか? 実際には遥かに低次元の話なのだ。ここでなされているのは、「自由解釈」といったレベルのものではなく、単なる誤読、しかも 自分の行動を正当化する根拠を聖書という権威に求めるという忌まわしく、卑劣な動機に基づく曲解に過ぎない。確かに パウロ主義の問題が議論されることはあるけれど、ルター以来、ジッドの同時代であればカール・バルトの講解が示すように、 パウロ書簡の中でも特に「田園交響楽」において取り上げられる「ローマ人への手紙」こそプロテスタント神学が出発点として、 参照点として重視し続けたことは論を俟たないだろう。「狭き門」すら、ニーチェをプロテスタンティスムの極限とするような 意味合いにおいてようやくプロテスタンティスムの(多分に畸形的な)徹底ということは出来ても、「田園交響楽」の中での 聖書の扱いについて、如何なる弁護もなりたたないだろう。これがあからさまな(つまり「背徳者」や「地の糧」のような) 批判でないだけに、その恣意的な「悪用」が目に付く故に、この書物が「禁書」になるのも止むを得ない気がする。 キリスト教的なものについて情緒的な受け止め方しかできない人間以外には誤解しようもないことだろう。 また、こんなレベルの曲解をしてのける人間が牧師であるという設定は、プロテスタントにとっては不名誉なことに違いない。 パウロの言葉を、ジャックを批判する武器として用いることを企てるとき、パウロの言葉の中の「愛」という語がどんなに 貶められていることか。あるいはまた「死」という言葉がどんなに歪められていることか?一体、ジェルトリュードの 行為が、「罪は生き、我は死にたり」の注釈たりうるというのは、それこそ冒瀆ではないのか?それを登場人物に言わせる 作者の理解を思うに、薄ら寒ささえ覚える。結果として牧師の言う、ジェルトリュードの宗教教育というのがどんなに 歪なものであることか。「罪」の意識なしに、「一粒の麦もし死なずば」の「死」を理解することはできない。 律法を知る前は、、、という言葉をルソー主義的に読むことくらい見当はずれなことはない。そして第一の手帖の末尾のジェルトリュードの 発言を読んでその時点でぞっとせず、第二の手帖になってからようやく気付くのは牧師だけであって、読者は決してそんなことは ないはずだ。既に第一の手帖において牧師の偽善は明らかなのだから。

もし、あえてこの書物の牧師の姿勢をプロテスタントの流れに位置づけようとするならば、シュライエルマッハーが置かれた立場と それに対する彼の対処を思い起こす必要がある。要するにプロテスタントの中にも、正統主義の立場と、 自由主義的な立場との対立が当時あったことを思い起こす必要があるだろう。牧師の立場は(あくまでそれを神学的な水準のみに 仮に抽象することを認めたとして、の制限つきなのだが)、非常に幅広いスペクトルを示すプロテスタントの諸潮流の中でも、 かなり極端な自由主義に属するはずである。例えばドストエフスキーがカトリックを敵視しはしても、決して無視しないのに対し、 プロテスタントに対してはそもそも相手にさえしないのは、主流であった自由主義的な立場に対してであったに違いない。 いわゆる危機神学、弁証法神学と呼ばれることのあるカール・バルトの「ローマ書講解」は、そうしたドストエフスキーに対峙して、 同じくドストエフスキーに対峙したことがわかっているニーチェを視野におきつつ書かれた(厳密には改訂されて、第2版で 危機神学、弁証法神学の立場に立つことになった)のである。ちなみに「ローマ書講解」の成立時期というのは、ジッドの 「田園交響楽」とほぼ同じである。

牧師の教会が、プロテスタントのどの流派に属しているのかは明確ではないが、 それはカルヴァンの改革派教会の正統的な教義とはほとんど無縁のものであることは間違いない。もちろんこれもまた プロテスタントの一つのあり方であるという主張は成り立たないこともなかろうが、それは寧ろ、当時のプロテスタンティズムの 自由主義的な立場が抱えていた問題点をグロテスクに戯画化して一篇の寓話としたという意味合いにおいてそうであるに過ぎないだろう。 ジッドは周囲にカトリックの友人を多く抱えていたし、カトリックに対する挑発を続けたから、ジッドの立場そのものを含めた対立そのものが 単純化され、図式化して捉えられがちだが、「狭き門」がそのような風貌を備えているように、実際にはジッドの問題の解決の方法は、 サルトルのような無神論ではなく、危機神学、弁証法神学にあったかも知れないのだ。プロテスタントの中そのものに、人間の意識の 中に神を解消するのとは逆の可能性があり、多分ジッドは「狭き門」ではアリサを通して、その近くを通過しているのだ。 ジッドの拒絶が意識的なものであるからには、ジッドは「田園交響楽」でカトリックを批判したのではないし、プロテスタントの中の 自由主義的な立場をエスカレートさせ、サルトルにおけるような人間中心主義的な立場を自覚的に選んだのだろうが、 もしそうだとしたら「田園交響楽」の結末は、ひどく歯切れが悪いもの、寧ろそれに対する疑念を前面に押し出したものになっていることになる。 「田園交響楽」の結末はドストエフスキーがゾシマの説教を通して示した地獄に酷く似たものではないか。

結末のジェルトリュードの自殺については、そこでカトリックへの改宗が語られるから、カトリック批判になっているように見えるかも 知れないが、それをジッドが意図したとしても、それは極めて浅薄で皮相なものに過ぎない。なによりもまず、ジェルトリュードはカトリックに 改宗した「から」罪を知ったのでは全くないし、彼女がカトリックの教義に忠実であれば、少なくとも自殺はしなかったはずであって、 これはカトリックへの改宗の失敗の話ではあってもカトリック批判にはなっていない。単に、カトリックへの改宗が、プロテスタントの牧師職で ある自分に対する批判であり、背馳となるがゆえに牧師は衝撃を受けたに過ぎない。意図されたのだとしたら、それは幾重もの論理の 混乱に基づくものであり、こんなものはまともな批判になっていないのだ。そういう意味では、ジッドは単に情緒的にキリスト教的な 風土に対してルサンチマンを抱いていて、その作品においてはそのルサンチマンが語られるばかりで宗教性は欠如しており、 それゆえジッドは宗教的な作家ではないという意見があるが、それは全くその通りである。勿論、「アンドレ・ワルテルの手記」に見られる 神秘的なものへの傾斜は見られるが、それとて感覚的・情緒的なものに過ぎず、それが宗教的な枠組みの中であればある種の神秘主義に似た 装いとなるけれど、それが逆のベクトルを持てば、他者の犠牲を省みない、自己の欲望の肯定や動物性な感覚の開放、無責任で無動機な 行為の称揚となるのだ。

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