見出し画像

「シリーズ音の洪水 vol.1 現代音楽の冒険 三輪眞弘の世界」を聴いて

「シリーズ音の洪水 vol.1 現代音楽の冒険 三輪眞弘の世界」(主催:洪水企画)
2008年10月11日新宿文化センター小ホール

ステージ鼎談 「音楽は三輪眞弘にどんな冒険を命じたか」 西村朗/小沼純一/三輪眞弘
三輪眞弘「虹機械 ふたりの奏者のための単旋律」(世界初演) 演奏:ROSCO (ピアノ:大須賀かおり ヴァイオリン:甲斐史子)、作品解説:三輪眞弘

「洪水」誌を主催されている池田康さんが三輪さんのコンサートを企画され、そこで新調性主義による新作が発表されるという お話を伺い、新宿文化センター小ホールへ。定員210名の通知があったが、ざっと見渡したところ半分程度の入りだったろうか。 ここでもいわゆる「部外者」がどれくらい聴きにきたのだろうか、と思ってしまう。「洪水」誌の関係者と三輪さんの知り合い。 2つの集団が、それぞれの内部では「再会」し、でもそれぞれの間では恐らくほとんど無関係のまま共存する。 私はそのどちらにも属しておらず、会場に着いてから去るまで、一言も誰とも喋らない。逆説的なことに、見ず知らずの人間が 隣の席で同じ出し物を体験し、見ず知らずのまま別れていくという、通常のコンサートではごく当たり前のことの奇妙さが 浮び上がるように思える。強いて言えば能の公演が似ているだろうか。演者のお弟子さんたちの集団にまじった外部の人間。

開場がやや遅れたせいもあり、自由席なのでまず席を確保して、そのまま席に坐ったまま「蝉の法」がスピーカーから流れるのを聴きながら 開始を待つ。三輪さんが違いを強調するからか、あるいは例外的に三輪さんの場合にはコンサートに赴き「録楽」より「音楽」を 聴く機会が多いせいか、あるいはこの前聴いた「録楽」ならぬ「音楽」が西さんによる「蝉の法」だったせいか、スピーカーから流れる 「蝉の法」に或る種の目眩のようなものを感じる。

クロノロジカルには前後するが、鼎談の最後に「録楽」に関して出てきた「幽霊」という言葉がこの感覚と関係するのは間違いない。 テクノロジーが可能にした再生芸術の生み出す「幽霊」。同時にチャーマーズに代表されるような意識の哲学の思考実験に 登場する「ゾンビ」のことをふと考える。コンピュータがあるアルゴリズムに従って(ただしここにはヴィトゲンシュタインのいう 「規則随伴性」は存在していない)生成する系列の音響への翻訳と、それを人間が演奏したものを記録したものの「再現」。 短絡させた「ゾンビ」の「幽霊」というのは実はありえない。今回の「虹機械」のマトリクス(母型)となった「五度重ねの 公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」は、コンピュータによるシミュレーション結果がそのままICCでデモとしてプレゼンテーションされた。 そこには「幽霊」はいない。いつも同じものが再生されるという点では同じでも、西さんがある日ある場所で演奏した「蝉の法」の 記録の方にしか「幽霊」の存在を可能にする条件はないのだ。だがそれは、それが西さんが演奏したものであることを私が知っているが故の 錯覚ではないのか。実は西さんが弾いているのではなく、デカルトの懐疑に出現する自動機械よろしく、ロボットがヴィトゲンシュタイン風の 「規則随伴性」なしに、ある種の「盲目性」のもとで演奏したものの録音だとしたら?これまた「虹機械」と関連の深い Nomadische Harmonieにおけるプレイヤーズ・ピアノの使い方の可能性のことを思い浮かべても良い。「幽霊」は一体どこにいるのか。 それが結局は見聞きする私の裡にいることは確かであっても、「幽霊」出現の条件の問いは依然として成立するし、 それはトリヴィアルではないし、不良設定問題というわけでもないだろう。ただし「幽霊」を経験から(何なら「クオリア」から、 と言ってもいいが)離れた言葉の遊びに解消してはならないだろうが。


催しは2部構成になっていて、池田さんによる主催者挨拶、三輪さんの紹介に続いて、前半の1時間は 小沼純一さんが進行役、西村朗さんが質問をして三輪さんが答えるといった役回りの鼎談。 15分の休憩をはさんで後半の45分は新作初演。三輪さんの解説と、ROSCOの演奏で合計2時間のプログラムである。

鼎談の内容は、もしかしたら「洪水」誌に掲載されるかも知れないのでここでは細かくは記すことは控えることにして、 個人的に特に印象に残った「ロマン主義」批判とその周辺の問題に限って以下に少し触れたい。 全体として西村さんの問いは鋭く、三輪さんの立場を闡明するという狙いを実現したものであったし、 小沼さんのコメントも三輪さんの活動の座標定位を行うことに寄与して、非常に充実した対談であったと思う。

三輪さんの批判する「ロマン主義」が括弧付きのものであり、それがアルゴリズミック・コンポジションを梃子にした 「音楽」の通念に対する問題提起のための戦略といった側面があったことはほぼ明らかだったが、それが鼎談で 明らかにされたと同時に、「表現」の問題が引き出されたのが私には興味深かった。音楽が感情や情緒の「表現」ではなく、 狭義の世界観の「表現」にさえ留まらず、世界に対する認識や姿勢に基づく「実践」であるという点が重要だと 思われる。そして「ロマン主義」に属する音楽であっても、私個人にとって、その点は変わらない。 作者の意図の次元においてもそうかも知れないが、それを超えた水準においても、聴き手は音楽を聴くことにより 世界の認識の様式を、感受の様態を、世界に対する姿勢を、世界の中に存在する様態を感受することができる。 そこに人間の限界を超える意志を感じることも出来るし、限界を超えることのできないことへの諦観を聴き取ることも できると思う。

音楽を聴くことは、ホワイトヘッド的な意味合いで「感受の感受」であり、感受の伝達なのである。だから 音楽をコミュニケーションモデルにおけるメッセージを伝達する形式と見做すことは行き過ぎた抽象化であり、 狭義の「表現」では汲み尽せない次元でのやりとりが音楽を通じて起きている様相に注目すべきなのだ。 見方によっては「ロマン主義」の典型と見做されるマーラーが自作について「あらゆる手段を用いて世界の構築をすること」と 言ったり、「もはや人間の声ではなく、天体の運行である」と言ったりしたこと、音楽が自分を常にはみ出すという意識を 持っていたこと、それを自己の表現の手段とは捉えていなかったことを思い浮かべても良いだろう。一般にはこうした発言や態度は 後期ロマン派の肥大した自我の誇大妄想の表明という扱いを受けることが多いが、そうした扱いは一方で十年一日どころか 百年前と何も変わっていないかの如く、マーラーの音楽の「標題」を、その「内容」としての「世界観」を議論すれば 事たれりという姿勢と表裏一体になっていて、実は自分の身の丈に対象を合わせて歪めている点では変わるところがない。 「ロマン主義的音楽観」として批判されているのは、具体的な音楽の経験ではなく、それを単純化した誤った抽象であり、 そうした抽象がドクサとなって音楽の聴き方を拘束してしまうことに対してなのだろう。「着メロ」を平気で切ることの 出来る同じ人間が、その「着メロ」に設定した恐らくお気に入りの旋律によって「心から心へ」メッセージが、「熱い思い」が 伝わると信じているということだって充分にありえるわけである。

(全く関係のないことだが、ひどくびっくりした点を一つ。西村さんが後期ヴェーベルンを「ニヒリズム」とおっしゃったのには びっくりした。それとともに、自分のヴェーベルンの音楽の聴き方が間違っているのかと思って、結構へこんでしまった。 私が聴く限りでは、後期ヴェーベルンは寧ろニヒリズムとは逆の境位にある。ニヒリズムがあるとしたら、それは後期ヴェーベルンを 受容した側の受容の仕方の方にあって、ヴェーベルン自身は全く別の方向を向いていたし、それは受け継がれなかった というのが、私の率直な印象なのだ。ここでの文脈に引き寄せれば、そこには「中世」への還帰もあるかも知れないし、 その一方で当時はコンピュータはなかったけれど、見方によってはアルゴリズミック・コンポジションの萌芽すら見出せるかも知れない。 「論理」についてもそうだし、「超越」についても然り。ここで問題なのは、アルゴリズミック・コンポジションもまた、 モダニスムの極限であるといったレベルの話よりも、「ノモス」を、音楽と「ノモス」の関係をどう考えるか、どこに人間を、主体を 置くかというの姿勢の問題であり、表面的な方法とはとりあえずは別の水準なのである。もっとも、ニヒリズムの定義も様々なので、 例えばクセナキスにも三輪さんにもニヒリズムはある、後期シベリウスにもある、ということであれば、後期ヴェーベルンにもあると いうことになるのかも知れないが。)

もう一つだけ印象を付け加えれば、コンピュータとの関係の具体的な様相の話になると、やはり実際にプログラムを 作って動かして、結果を検証して、というプロセスを実際にやった経験の有無というのが実感の有無と結びついてしまう 感じは否めない。こちらも言葉で伝えるのにはどうやら限界があるようで、些かおこがましい言い方になるが、三輪さんの 発言の中で私のような部外者が感覚的に腑に落ちる部分がうまく伝わっていないようなもどかしさを感じる場面があった。 これは勿論、理系かどうかといった問題ではなく、単純に経験の有無による暗黙知の問題なのだ。アルゴリズミック・ コンポジションに関しても同じで、オートマトン、力学系を(それが具体的なモデルか、形式的な側面かはあまり大きな 問題ではなく)実際に調べたり、記述してみたり、という経験の有無は大きいように思える。こうした側面は、私にとっては 三輪さんの際立ってわかりやすく、親しみやすい部分だし、「同時代」ならではの問題意識や、テクノロジーの共有を 背景とした「共感」(それが幻想であっても)を支えている側面だし、上記の「ロマン主義」批判とも不可分のものに 感じられるのだが、それが例えば、「論理と魔術」といった捉え方で「中世的」なものに結び付けられると、逆に自分に とっては自明と感じられている「同時代性」が、実は甚だ危うい、自分の勝手な思い込みによるものなのでは、という 疑念さえ浮かんでしまう。中世における世界認識のありようが、実感として本当にわかるのだろうか、 という疑問の方はおくとして、「魔術」がテクノロジーをブラックボックス化したことによって生じた余白を埋めるために 用いられているとしたら、やはりそうした捉え方には違和感を感じる。

何でもそうだが、テクニカルな側面の内側から見れば、多分「魔術」などないのだ。勿論それはすべてが合理的に 説明できるという意味ではない。そうではなくて技術的に追い詰められる限界がどこまでなのかは、知っている 人間には(一応は)明らかであり、課題もまた明らかな筈だということである。 そして閃きとか着想とかの独創性や、それらの掘り下げの徹底、思いがけない展開というのは、 その先にしかない。逆に言えば、その先は恐らくいつでもどこでも(例えば数学や理論物理学の世界でも) 同じなのではなかろうか。


例えば遅ればせながらノーベル賞を受賞された南部陽一郎さんの理論的な着想は素人目にも天才的な閃きに満ちていて、 まさにそれは最高の意味での「冒険」と呼ぶのに相応しいと私には感じられる。 本当に今まで受賞しなかったのが不思議で、個人的にはこれほど嬉しいことはなく、素人の独り善がりの滑稽さは承知で、 あちらこちらにその感激を言ってまわっているのだが、その凄さが本当にわかるのは同じくノーベル賞を受賞した 益川さんのような同じ圏に属する人に違いない。自身の受賞にはあんなにクールな反応を示された益川さんが 南部さんの業績に触れた時に感極まって声を詰まらたのは本当に印象的だった。 そこには外部の人間の想像するレベルでの魔法などなく、厳密な数理が支配している領域で数学という技術を 使って世界についてどのような未聞のモデルを描きうるかが問題なのだ。物理の場合には常に観測によって理論の 正しさが検証されるが、南部さんの提示する理論の場合には、検証の結果、ディティールにおいて仮に難点があったとしても、 その理論によって新たな見方が、アプローチが可能になるという凄みがある。勿論、領域は全く異なるし、 感動の質も異なるし、その一方でどちらに対しても所詮は素人で、だから本当の凄みがわかるということは ないのだが、それでもなお私にとって三輪さんは、私なりの接点によって同じような種類の凄みを感じることのできる存在なのである。


一方の新作「虹機械」については、Nomadische Harmonieに触れて色々試行した経験や、 ICCでの新調性主義の発表をライブ・ストリーミングで視聴した文脈を持っている私にとっては、 そうした参照先を思い浮かべつつ、外乱によって遍歴に出て、様々な遷移過程を経て収束する音の流れに身を浸す、 実に刺激的な経験だった。受けた刺激のすべてを言語化することは勿論できないが、幾つか、特に印象に残った点を ここに書き留めておきたいと思う。

「虹機械」の虹は、「虹の技法」の虹とは異なって、ここではNomadische Harmonieでは視覚化されていた 調性の虹を指しているとのこと。作品は3つの部分(以下、便宜的に楽章と呼ぶことにする)よりなり、 それぞれ「無題」「ロム・アルメ(L'homme armé)」「シンクロナイズド(Synchronized)」と題されている。 全体をいわゆる無窮動(perpetum mobile)の音の継起が覆っているが、これはアルゴリズムによって 自動的に生成された音の系列に他ならない。第1楽章ではヴァイオリンが、第2楽章ではピアノが 音の系列を凄まじいスピードで演奏していくのに対して、第1楽章ではピアノ、第2楽章ではヴァイオリンの ピチカートが間歇的に音をおくだけである。第1楽章はわずかに3回、第2楽章は17回それがおきる。 第3楽章は2人が合奏で音の系列を演奏していくが、終曲間際、音の系列が収束するととともに、 楽器に替わって奏者が自分の声で収束した音形を歌う。全曲の長さは測定していないので正確には わからないが、15~20分程度ではなかったか。

ICCでは既述の通り、「五度重ねの公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」がデモとしてプレゼンテーションされたが、 これは力学系の分類でいけば自律系であって、12分程度の音の系列は初期値から厳密に、前に鳴った音を 入力として次に鳴る音が計算されるのを繰り返すことによって生成されていたのに対し、「虹機械」の最大の 特徴は、系が非自律系であり、開いていることだろう。この点はNomadische Harmonieと共通していて、 いわば他者が打ち込む音が外乱要因となって音の系列に変化が起きるのである。上述の第1楽章では ピアノ、第2楽章ではヴァイオリンのピチカートが鳴らす間歇的な音がまさにその外乱要因であり、 特に第1楽章では、はっきりと音の系列とは異質な音が鳴らされ、その前後で音列の継起パターンが はっきりと変化するためすぐにそれとわかる。(特に冒頭、同じパターンの繰り返しをずっとヴァイオリンが弾くところに ピアノが最初の介入をするところはわかりやすく、私はここですぐにNomadische Harmonieを思い浮かべた。) それに対して第2楽章はヴァイオリンが置いていく「ロム・アルメ(L'homme armé)」(中世のミサ曲などで旋律が 繰り返し用いられた民謡)が、音の系列の中からロム・アルメの音を拾い出したものか、第1楽章同様の外乱 かが私にはわからなかったのだが、正解は後者であったようだ。詳細はわからないながら、Nomadische Harmonieでは 「君が代」で人間が割り込んでも自動生成される音の系列を大きく攪乱することにはならなかったし、 「ロム・アルメ(L'homme armé)」は旋律としては比較的単純だから、外乱であったとしても系の状態を そんなに急激に変えるような働きをしなかったのかも知れない。第3楽章はまさにシンクロナイズされているから、 これは自律系であり、アルゴリズムは音を中心とした調性に収束するようにプログラムされているから、最後には 単純な音形の繰り返しになって終結する(この末尾が人間の声で歌われるのである)ものの、それまでの過程は かなり複雑で、ICCの時もそうだったように幾つかの準安定状態を彷徨ったのちにようやく収束する。

ROSCOのデュオを想定してのことかも知れないが、デュオにしたときに一方が他方にとって系の外部に 立つようにした趣向は興味深い。その一方で、Nomadische Harmonieとは明らかに力点が移動している点が 注目される。即ちここでは、機械と人間とのインタラクションが問題なのではない。外乱といい開放系といい、 結局は事前に計算され、記譜されているわけであるし、それを人間2人が役割分担して演奏するのである。 コンピュータの生成した音列を人間が演奏する点では逆シミュレーション音楽に近いが、規則に基づく計算を 人間がしながら音を鳴らしていくのではなく、計算結果を音響に変換する作業を人間がやっていく。従って、 アルゴリズムが単純なものであるという制約はここではなくなり、実現する音響の複雑さや多様性には 大きな自由度が存在することになるとともに、演奏者には今度は高度な名人芸が要求されることになる。 丁度ラヴェルのヴァイオリン・ソナタのように。

ラヴェルは左手のための協奏曲を委嘱したヴィトゲンシュタイン(こちらは兄のピアニスト、パウル の方)が音を勝手に変えたのに腹を立て、「演奏家は作曲者の奴隷だ」と言い放ったらしいが、言い方はともかく、 ここには西欧音楽の伝統の中で、一般には表面的で精神性に欠けると見做される傾向にある、だが実際には 作曲者が強い信頼を置いている、演奏家の高い技量とそれを支える技術の伝承のシステムを支えとする 「名人芸」の側面が取り出されていると見ることもできるだろう。ただしその内実は大きく異なる。というのも、例えば ピアノ音楽で「名人芸」作品と呼ばれる作品は、ピアニスティックに、要するに高度な技巧は必要とするが、 生理的には弾きやすく、聴き栄えのするように書かれる場合が多い。一方では、聴いた感じではそうではないのに 酷く弾き難い作品というのもあって、わざとそうした難所を仕掛けるといった、演奏者への挑戦のようなことも 行われてきた。ところがここでは、そうした楽器奏法上での都合はほとんど顧慮されない。あくまでも 生成した音の列をそのまま演奏していく必要の結果として、いわば生理にはお構いなく演奏至難な箇所が 頻出することになる。

楽器の構造、奏法を顧慮せず、或る種の法則に従って音の配置を決めた結果、演奏至難、厳密には 演奏不可能な超絶技巧を要する作品になった例としては、例えばクセナキスの幾つかの器楽作品が 思い浮かぶ。だが、結果として生成される音響の様相の違いはあまりに大きい。クセナキスもまた 人間が演奏するという点に拘っていたが、クセナキスの音楽は結果としても常に機械による 完全な演奏というのを論理的な極限として設定することができるものであるように思え、クセナキス本人の 意図に関わらず、例えば今日ならMIDIプログラミングによる実現は作品の持つ性質からいって可能だと思う。 寧ろ世代的に先行するクセナキスにとっては電子楽器の性能の限界のせいで、人間による演奏の方が 媒体として優れていたという側面が常にあるように感じられるのだ。

それに比べたとき、三輪さんの音楽はなんと「人間的」なことか。 2人の奏者が第1楽章、第2楽章で行うやりとり、即ち一方が他方の状態遷移を 攪乱する外乱となるという役割もそうだし、第3楽章の最後で人間が歌うのもそうだが、それ以上に、 素人目に見ても凄まじい超絶技巧にも関わらず、あるいはそれを実演の場に立ち会って「音楽」として経験する故にか、 それが人間のものでしかありえないという感じを受けたのだ。(川島素晴さん主催のコンサートで 大井浩明さんの弾くクセナキスの「ヘルマ」を聴いた時には、その美しさに圧倒されはしたものの、 「人間の音楽」という感じは全く抱かなかったのとの対比が個人的には印象的である。)

曲の末尾に人の声が侵入するのは三輪さんがこれまでも用いてきた手法で、「言葉の影、またはアレルヤ」や 369のシリーズなど、すぐに幾つか例が思い浮かぶが、ここでは調性に収束する傾向が与えられた アルゴリズムの収束点をまさに人間が歌うというのも示唆的である。もっともこれは実際上、合理的だとも言える。 調性のない、だが厳密に音高を指定された音列を人間が歌うのは困難で、現代音楽の合唱曲などでは 音叉で音を確認しながら歌うケースもある。音域的にも収束し、調的で、音型としても同型反復になった部分なら、 人間が歌うのも困難ではないだろう。

私が上でラヴェルに言及したのは、時折特に調性感の強くなる部分の響きの質に、 似たような印象を受けたからに他ならない。(実際私は、第3楽章の無窮動(perpetum mobile)を 思い浮かべずにはいられなかった。) 今度は「東の唄」「東のクリステ」のような意識的な引用ではないのだろうが、ここではクセナキスの場合とは異なって、 はっきりと調性を巡る遍歴が問題になっているのだ。調性システムがより「自然」なものであるかどうかに ついては議論があって、確かに単純な振動比に基づく議論や倍音列についてはそうした「自然」を 考えることもできるだろうが、どこかから先はやはりそれは文化的な構築物なのだろう。ここでも平均率 システムの選択、楽器の選択はそうした文化的な構築物への参照を控えめに言っても含意しているし、 どこから「自然」が始まるかを見極めることは重要ではないだろう。重要なのはその「自然」がクセナキスの それのように、あからさまな他性を帯びているわけではなく、どこかで文化的な伝統と親和的なかたちで 繋がっているということだろう。

勿論三輪さんの場合だって、自動演奏ロボットが演奏してもいいのではないか、などといった空想を してみることはできるだろうが、その場合に「歌う」ことは人間が演奏した場合と同じだろうか。例えば 人間にしても、「二人の奏者のための」と銘打たれはしても、ここでは恐らくROSCOの二人の女声を 想定して書かれたヴォーカルの部分が、男性の演奏家が演奏する場合どうなるかはこれはこれで興味深い。 だが、それと自動演奏ロボットの合成音声との間の差は程度の問題なのだろうか。この作品は単に 演奏至難な作品ではない。技術的な完璧さ、音響の完全なリアライズとは別の何かもまた、この作品では 要求されているのだ、ということを感じずにはいられなかった。

それにしてもプロの演奏家の能力というのは素晴らしいものだとつくづく思う。三輪さんが作品解説において、 2ヶ月生活費保証で演奏家を借り切れればスコルダトゥーラにも新しい楽器にも対応できるのだが、 それは現実にはできないとおっしゃっていたが、そうしたアルターナティブなしに普通の楽器で普通でない音の並びを ROSCOのお二人は弾ききってしまわれた。三輪さんはICCでの新調性主義の提唱の中で、演奏家の高度な 技術の蓄積を生かす方向性を語られていたが、そういう意味では、三輪さんの懸念を超えて、 新調性主義の方向性はROSCOのお二人の高い技術と音楽性によって支持されたと考えて良いの ではなかろうか。丁度、物理学では実験による検証によって理論の正しさが証明されるように、ここでは 実演によって、要するに「音楽」としてそれが成立しうるかどうかによって、三輪さんの方向性の正しさが 比喩的な意味あいで証明されたと言えるように感じられた。


いずれにしても、この催しを通して改めて三輪さんの活動への共感を強く感じるとともに、自分のその共感が 非常にローカルで、もしかしたら思い込み、錯覚に過ぎないのでは、という感じを強く抱いた。だがそれは 仕方ないことなのだと諦めるほかなさそうである。三輪さんの音楽に関心を持つ人間の中では私は明らかに マイノリティに属するのだろうし、自分が特権的な視点に立ちうるという如何なる根拠の持ち合わせもない。 自分を取り囲む文化的・社会的・技術的環境の違いの分だけは、自分の展望が歪んだものになるのは 避け難いし、完全な共有は不可能なばかりか、そもそも無意味である。音楽を聴くことになんか理由は いらないのかも知れないが、その点に関する立場も含めて、音楽に対する立場は多様だし、立場に応じて 自分がそこから汲み取るものが異なるのは当然なのだ。三輪さんの音楽に限らず、どんなことでも それを不要とする人間が必要とする人間よりも遙かに多いのは当たり前のことである。一方でその音楽を 必要としている人間にとって、新しい作品の誕生に立ち会えることがどんなに大きな意味を持つかは明らかだ。 私がここに感想を記すのも、ただただそのことをこれもまた一つの実践として、行為をもって示さんがために 他ならない。今回もまた、三輪さんが持っていると私が感じている凄みを感じることが出来たのは間違いなく、 それがこの文章を書く衝動を支えているのは確かなことなのだ。そうした経験が出来たことに対して、 三輪さんと、ROSCOの甲斐さんと大須賀さん、西村さんと小沼さん、そして主催者の池田さんに感謝したい。

(2008.10.13初稿, 公開, 14,18修正, 2024.6.23 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?