見出し画像

「魔法の鏡」に関する三輪眞弘氏に宛てた応答の断片、または「新しい時代」への応答のための準備作業

三輪眞弘「魔法の鏡、または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」(F/Tジャーナル創刊号)

(...)「パルジファル」の第2幕、魔術師クリングゾールは様々な魔法の道具が置かれた部屋の 中で、とりわけ鏡を扱うというト書きの指定がある。例えばクプファーの演出では、構造上 クリングゾール/クンドリーによる前半と、パルジファル/クンドリーによる後半の場面転換の繋ぎ、 両者を橋渡しする幕間の狂言の如きものとしての「花の乙女」の場面を、多数のモニターに 映し出させる花と乙女の映像が生み出す虚像として演出し、テクノロジーの魔術に幻惑される パルジファルを出現させる。第2幕終幕でクリングゾールの投げる聖槍を受け止めて十字を切る パルジファルが出現させるのは、ゴミとしてのモニターの山であり、廃墟と化した魔法の城は 「光のない」闇に沈んで第2幕が終わる。聖杯が放つそれを含めて様々な光が交錯する 「パルジファル」、「光のない」闇の中で行われる儀式を赤外線カメラで写した画像をディレイさせて 映し出す「新しい時代」でのテクノロジーの利用をそれと突き合わせてみることも可能だろう。(...)


最初に題名である"Licht/Lux"について、「つまり」原発災害について。

私としては、"Lux aeterna ..."の作者である三輪さんが、(イェリネクをどのように読んだか、 ですらなく、)イェリネクの戯曲が扱っている「同じ」現実をどのように認識しているのか、 "Lux/Licht"についてどのような認識を抱いているのかを語りかけるだけでも、非常に 大きな意義があるのではと思える。

戯曲に書かれた状況が"Kein Licht"であるという認識は一体どのように説明されるのか。 イェリネクの戯曲におけるLichtは多義的で、のみならず厄介なもののように見える。 単純に良い光・悪い光の区別が可能であるのではないだろう。逆にもしそうなら、 そうであるに過ぎないのであれば、それが西欧の「前衛」であるイェリネクの思考の 「囲い」を徴づけていると私には見えてしまう。


「目に異物が入れば人は涙を流す」の引用についての三輪さんとイェリネクとの認識のずれ。

三輪さんは「心を動かされる」こと自体が異物が入ったときの反応を変わるところがないと 述べる。そして私もそうした見方の方が、今や適切な認識ではないかと思う。 一方でイェリネクの文脈では、「悲しみ」「絶望」の欠如という状況について上記引用を 用いていて、三輪さんが「絶望する(考えない)」と書いているのと、少なくとも表面上は 対立するかのように見える。しかも、この違いが音楽を音をどのように考えるかについての イェリネクの認識と三輪さんの認識の関係と並行的であるように私には見えるので、 実はまさにこれを引用することで、急所が押えられているように私には感じられた。


「記号」について。

私の知る限りでも記号とは何かについては様々な定義がある。 記号論と呼ばれる研究分野があるが、そこで何を扱うかは研究者によって様々だ。 三輪さんの定義はそのうちの幾つかからすると独特の部分を含んでいると思うが、 それ自体が問題であるとは私は考えない。 「複製可能なものはすべて記号である」という規定や例示により三輪さんの記号観は明確だ。

ちなみに、記号はすべて複製可能か?複製可能でないものは記号でないのか?というのは 上記規定と矛盾することなく問うことができることは念のため確認しておくべきだろう。 というのも、私には何となく、それらもまた三輪さんの議論の背景にはあるように感じられる からであり、そしてこの点は多分、決して瑣末な点ではないと私は感じている。

一般に記号の特徴は、(恐らくは言語記号が範例的とされるからだろうが)記号が 指し示すものと異なっているという不透明性が言われることが多いのに対して、ここではとくに 「録楽」における媒体の透明性がもたらす効果、テクノロジーの発達が可能にするバーチャリティと リアリティの境界の知覚レベルでの曖昧化が重視されている。 複製可能性と透明性の2つの相乗効果として、恰も「現実(ここでは「音楽」そのもの?)」が 「反復」されうるかのような錯覚が生じるということなのだと思うが、それを「記号」と名付けた ものの効果と言われると、不透明な記号を範例的なものとして思い浮かべる人は戸惑うかも 知れない。

上記の議論はそのまま「あの世」とは何かという問題に直結する。一般には記号には 指示対象があることになっていて、それは逆に「この世」なわけだ。ところで、ここでいう 「この世」には否定的にしか言えない、反実仮想的なもの、ヴァーチャルなもの、想像上の ものが含まれるのかという古典的な問題がある。(20世紀初頭の時点でのフランス国王も そうだが、ここではペガサスのような存在が問題だろう。) ソシュール記号論では、記号そのものにシニフィアンとシニフィエがあって、それらは指示対象 とは区別される。だから「あの世」とはシニフィエのレヴェルのもので、だから「この世」に 含まれる指示対象そのものとは異なるとされる。 そのとき、以下のような問いをすることは可能ではなかろうか?

この立場に立ったとき、記号ではない音楽が「表現する」反実仮想的なもの、 ヴァーチャルなもの、想像上のものの地位はどうなるのか。それはここでいう「あの世」でも 「この世」でもない、別の何かなのか?

「この世」は「あの世」と独立のものなのか。或る種の立場では、実は「この世」というのは カントのいう「物自体」のような理念的なもので、あるのは「あの世」だけなのだ、ということにも なりえる。話を知覚に限って、もっとトリヴィアルなものを取り上げれば、「錯覚」のようなものも ある。しかも知覚において錯覚は実は本質的なもので、既に生物学的なレベルで、 実は加工された情報を「私」は知覚しているのだ、というのはどちらかといえば事実としても いい考え方だろう。でも恐らく三輪さんの主張の水準はこのレヴェルにはないものと想像される。

実際には、ここでいう「あの世」というのは、人為的にテクノロジーを利用して、操作済みの 擬似現実たる「あの世」を見せて、更に媒体の持つ透明性をいいことに、恰もそれを 「この世」であるかに見せかけて人間を騙す類のメディア操作の水準の話だろう。 原発事故報道における情報の隠蔽や加工の話は、こちら側に属する。 ところでこうした水準の話と、「録楽」が記号であるという話の間の関連はどうなっているのか。 ある時期のロラン・バルトのとりわけ写真の記号論は、写真によって世論を操作する 「神話作用」の批判の手段という側面を備えていた。ところで、このレベルにおいても、 「この世」は「あの世」と独立のものなのかという問いは成立するのではないか?

そしてここに様々な危険が存しているように私には感じられる。


「幽霊」について。

「幽霊」についても、それが多義的であり、 幾つかの種を区別する必要があり、それを混同すれば誤った単純化によっておかしな結論に 辿り着く可能性があることに注意しよう。ヴァーチャルなもの、想像的なものの地位、 存在論的な範疇の問題が、まさに「幽霊」の問題そのものなのだ。

幽霊自体は両義的な存在であること、そして幽霊の存在は 「録楽」のような(三輪さんの言う)「記号」のみが召喚するものではなく、寧ろそうした 「記号」からは逸脱するであろう優れた芸術作品において最もよく召喚されうるものとは 考えられないだろうかという点は繰り返し確認すべきだろう。

(なお、記号がテクノロジーに支えられたものという認識にたてば、幽霊に必要なのは 電気、そして不断のメンテナンスというのはごく自然に理解できるのであって、 逆にそのように書くことによって、「幽霊」が「テクノロジーによって記号が召喚するもの」 であるという認識が徹底されているというように読める。

「私もまた幽霊かも知れない」という認識は、勿論、私も「記号に 召喚された」存在であるに過ぎないという認識であるとすれば矛盾はしない。だが しかしその一方で、「記号が召喚するもの」以外の「幽霊」こそ、歓待としての「音楽」に 相応しい者、追悼としての音楽に、奉納としての音楽に相応しい対象ではないだろうか? 私もまた幽霊でしかないとして、問題は「幽霊ではない何か」ではなくて、「幽霊」を歓待する方法、 幽霊を文字通り亡き者にするのではなく、幽霊でしかないという認識の下、生き延びることを可能に する技法なのではないか。

幽霊ではない何かではなく、捏造されたという意味で架空の存在であるわけではなく、 歴史から抹殺され、過去に生を刻むことなく流砂に埋もれるばかりの存在であるがゆえの 幽霊性を、「録楽」は忠実に再現し、反復するものの、事実性の境位に留まるほかない 幽霊性ではなく、そうした幽霊性を「歓待」する可能性こそ記号ではない「音楽」にしか できないことなのではないか?

「録楽」を支えるテクノロジーは、同時に「投壜通信」を可能にするテクノロジーでもある。 死んだツェランが自作の詩を朗読しているのを聴くことができることを用いて、例えばあれ程苦しんだ 亡きツェランに更に不名誉の濡れ衣を着せるような操作をすることも可能かも知れないのだ。 幽霊を更に苦しめる「テーマパーク」を設えることも可能だろう。

けれども、必ずそのような操作が帰結するというのははっきりと誤りであると私は考える。 「幽霊」が出現すること自体は、どちらかといえば価値中立な「事実」の類なのではないか? ただし、「録楽」が呼び起す「幽霊」は、常に同じものの「反復」、過去の再現でしかありえない。 そして皮肉なことに、操作なしには、再生技術の発達は、「反復」の、「再現」の忠実度を 上げる方向にしか寄与しない。そこには生成も創造もない(勿論、生産的な「録楽」の 聴取は可能であり、それは別の問題だ。そこで生成、創造があるとすれば、それは「録楽」 そのものの裡ではなく、私の「心の仕組み」の側の問題のはずだ)。一方で実演は、 「幽霊」を歓待し、「幽霊」のために祈ることではないか?歓待や祈りといった部分に こそ、生成が、創造の働きがあるのではないか?そして、そうした場面にあって本当に 創造的であるためには、自分もまた「幽霊」でしかないことについての自覚が必要である、 とは言えないだろうか?


(..)いずれ「光のない」モノローグオペラ「新しい時代」を取り巻く一連の作品における「光」について、例えば 信徒歌曲集で歌われる夥しい「光」について、100年前の西欧での「新しい時代」であったかも知れない 舞台神聖祝典劇「パルジファル」の光と突合せる作業を行うべきではないだろうか。借り物の演出による 「パルジファル」を上演することよりも、3.11後の不可能な「永遠の光」を、「魔法の鏡」である「録楽」の前で 沈黙する舞台上のオーケストラに向き合うことの意味を考えることの方が、より一層切実な作業ではないのか。 例えば「パルジファル」の「花の乙女」がモニターに写された画像であるなら、(メディアアートであれば「当然」の 選択肢として考えられるように)オーケストラの方もまた、「録楽」による音響の再生であるべきではないのか(...)

(2012.10.08公開, 2024.7.31 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?