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「第8回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成26年4月5日)

能「江口」平調返
シテ・香川靖嗣
ツレ・内田成信・佐々木多門
ワキ・宝生閑
ワキツレ・則久英志・大日方寛
アイ・山本東次郎
後見・塩津哲生・内田安信・中村邦生
笛・一噌仙幸
小鼓・曽和正博
大鼓・柿原崇志
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・大村定・長島茂・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久


今年で8回目となる「香川靖嗣の会」は毎年4月の最初の土曜日に行われる。多忙な日常に埋没している裡にそれでも季節は巡り、 そして桜の花の時期に能を拝見することが、自分を超えた大きな秩序の持つ呼吸に辛うじて自分を同調させることのできる 貴重な機会となっているという思いを今回程強く感じたことはない。

昨年はとうとう前回の「香川靖嗣の会」での「伯母捨」一番 のみしか拝見できずに1年が過ぎてしまい、その同じ流れの中で、前日の深夜、当日の朝まで多忙に追われ、澱のように蓄積した 疲労の中で、それでも気持ちの遣り繰りをつけて能楽堂に足を運びさえすれば、そのような貧しく窮まった自分が受け取るには 過剰であることが最早明白な価値を備えた、必ずや記憶され記録されるべき、これ一度きりの演能に立ち会うことが出来、 そのことで自分が自分を超えた秩序との繋がりを保てているのだということを、拝見して後にこれほど強く感じ噛み締めたことは なかった。

それは一つには、今回の番組が「江口」であったことにも拠るのではないかとも思うが、そうであったとして、 それはまずもって、想像しうる限りでこの上を考えることのできない程に素晴らしい舞台を実現した香川さんをはじめとする 演者の方々の力があってのことなのは明らかなことだ。能楽の技術的・専門的な細部は詳らかにしないが、それでもなお 受け止めたものの純粋さ、透明感、何よりそれが人間の有限性を超越した何かに由来するに違いないと確信させる 圧倒的な強度は見所の全ての人にとって明らかであったと思う。拙い感想を以下に記すにあたり、演者の方々への敬意と 感謝の気持ちをまず書いておかねばならないと感じている。

馬場あき子さんが、毎回恒例のそのお話の冒頭述べられた通りに満席の盛会の中、馬場さんのお話は、作品の背景である 性空上人の説話や西行のこと、更には背景となった江口の遊女の社会がどういったものであったかといった点から、 今回演じられる小書の内容にも渉る詳細なものであった。これはいつものことであるが、内容もさることながら、そのお話の音調が 明確に備えている質に感銘を新たにする。演能の前のお話以外にも、馬場さんの文章や対談の記録などを時折 拝見することがあるけれど、それらから感じられるものと共通で、突飛な言い方かも知れないが、 言葉の選び方、内容の運び方によって、同じ日本語を使ってもかくも確固として日常とは一線を画した独自の世界を 築くことができるのだという感じを持ったのである。つまらない比較だが、例えばビジネスでも話術の巧拙はあり、 文章の規範があるけれど、それとは全く異質の世界であり、全く異なる価値の尺度があって、そこでは言葉が 全く別の表情を帯びる、その在り様を目の当たりにしたわけである。これまではそのお話を聴くうちに (少なくとも私にとっての)非日常への移行ができる緩衝装置として機能していたものが、今回についてはほんの 数時間前までいた世界とのあまりの相違に、馬場さんのお話そのものに対して或る種の眩暈のようなものを 覚えたのではないかという気がする。


 休憩を挟んで「江口」。まずワキの僧たちが登場し、道行の後、江口に到着すると、古い能らしく、アイが 演じる所の者を呼び出して、江口の遊女に纏わる故事を偲ぼうとするところに、橋掛りの幕の更に向こうから シテの江口の遊女の霊の呼び掛けがある。こう書くと何でもないことのようだが、決してもたれることはないが、 じっくりと克明な運びで場面設定がされるその過程自体が大変に密度の高いもので、あっという間に舞台の上に 江口の渡しのあたりの風景が広がっていく様の確実さは、例えば近年のヴァーチャル・リアリティ等の テクノロジーを駆使したマルチメディア・アートなど全く寄せ付けない程のもので、古典芸能が磨き上げてきた 人間の想像力を解き放つ力の凄味を感じずにはいられない。僧との遣り取りのうちにこれはいわば型どおりに 正体が明かされて前場が終わり、今度は本当のアイ狂言となる。

能は「幽霊」という存在様式をあたかも自明のようにして扱うのだけれど、普段は幽霊などとは無縁の世界に 生きている人間が、舞台の上に現れる幽霊に何の違和感も覚えないのは、能自体が単なる見世物ではなく、 超越的なものへの通路を開く、祭祀的・奉納的な側面を備えていて、その力が現在に至るまで継承されているからに 違いない。だがそうした条件の上で、実際に幽霊を舞台の上に呼び出すべく風景を変容させるのは囃子方の芸の力であり、 舞台の上に幽霊を現出させるのはシテと地謡の芸の力である。

現実離れした世界が確固たるリアリティをもって現れるという点では、後場は更に圧倒的であった。 これまでもしばしば、事実としてはそれは能舞台で作り物を用いて演じられたに違いなくても、記憶から呼び出してみると 舞台は消えて、恰もそれを自分がかつて実際に見たように風景が再構成される経験はしばしばしてきたが、今回の場合もそうで、 記憶から再構成される風景の中では橋掛りは消え、水面に浮かぶ舟にのった遊女の舟遊びが、だが現実離れした内側から 発するような光に照らされて浮かび上がるのが見えるばかりである。

その後シテのみ舞台に残ってのクセは、これも(少なくとも私には)些か古風に感じられる所作を伴う舞グセであり、 あたかもシテの心境を托した舞を見るかのようでいて、実際には、既に達観して或る種の悟りの境地に達している者が 自分の到達した地点から自分が生きてきた世界を眺めるような、どこか現実離れした不思議な透明感があるように感じられた。 後でその時の感じを反芻しつつふと頭の中をよぎったのは、伝承によれば性空上人は目を閉ざせば仏がいて、目を開ければ 遊女が舞っている、という経験をしたという話で、それを強いて遊女から菩薩への変化の過程ということに帰着させて しまえば、クセの部分からその変容は徐々に始まっているような印象であったということになるのかも知れない。例えば 「凡そ心なく草木、情けある人倫、いづれ哀れを遁るべき、かくは思い知りながら」というように、クセの詞はまるで 波の満ち引きのように、息のめぐらしのように、或る瞬間には語られる迷いの世界の中にいるようで、次の瞬間には そうした迷いを解脱した境地、前生も来世も、世々の終わりをわきまえた境地にいるかのようである。

だが最も印象的だったのは、舞の出だしの囃子の不思議な効果であったと思う。事前の解説によれば恐らく主として 囃子方の小書きによる効果なのだろうが、普段とは別の次元に落ち込むような感覚、時間や空間が変容していくような感覚が 大小の独特のリズムと間合いによって生じる。シテの舞も、段を重ねる裡には徐々に常の序の舞のようにも見えてくるのだが、 最初のうちはまるで人間が常に生きているのとは異なる別種の時間の流れの澱みに落ち込んだかのような、どこかがずれていて、 だがそれゆえに普段は見えない何かがふとしたはずみで滲み出してきて、だんだんと見えてきてしまっているような感覚に囚われた。

それが心の奥底から浮かび上がってきたものなのか、外部のどこかから 到来したものなのかはわからない。が、心の奥底の無意識の領域というのは、結局意識にとってはそれも一つの外部で あることには変わりなく、そうした自分でも知らない領域を人間は自己の内側に抱えているのであって、そういう意味では 自分の奥底にこそ自分とは他なるものへの通路が穿たれているというのが人間の精神のあり方であることを思えば、 今回の演能は、まさにそうした心の奥底まで照らし出すような力を備えていたということなのだと思う。

そして序の舞が終わり、謡が再び始まった瞬間には、気付けばもうそこにいるのは遊女ではない。だが、例えば序の舞が 遊女が仏身となる過程であるというのを序の舞の間に認識できていたわけではない。それは結果からのいわば因果を 逆向きに辿った推論であるに過ぎない。しかもそれは意識的に行われるとは限らず、意識の閾域下の無意識的な編集の 結果、あたかもそのような順序で出来事が継起したかのように、意識は思い込まされるものなのである。確かなのは、 舞が終わったときには時間・空間の意識が変質してしまい、普段自分が生きている現実では絶対に経験できないような、 透明で純粋なものに充たされた場のうちに何かが立っているのが見えるということだけなのだ。

「江口」は馬場さんのお話にもあった様に、遊女が仏身になる、あるいは普賢菩薩が遊女として化身していたのが、 その本当の姿を現すという出来事を主題とした能であるということで、ほとんど能評のみならず能に関連した文章を 普段読むことのない私ですら、お仕舞や演能の記録や評論の類に、仏になったように見えたとか、象が現れたとか いう文章を目にすることがある作品である。勿論、それらは恐らく決して修辞の類ではなく、 見たままを書いたものなのだろうと思うし、私も観能の際に類似の経験をすることはしばしばある。 そうした経験について言えば、勿論それを現実と取り違えるようなことはなく、そうした印象が虚構(ただしいわゆる 錯覚に近いことが生じることはままあるが)であり、或る種の心理的な効果に過ぎないことは前提となっていて、 例えば今回なら、キリで曇に乗って去っていくくだりの橋掛りでの所作は、あたかも詞章の内容を目の当たりに したかのような印象を与えるものであったし、序の舞が終わった瞬間、気付いた時には、或る種の相転移の あちら側に既に移っていて、遊女が仏身になる、あるいは普賢菩薩が遊女として化身していたのが、その本当の姿を現した かはともかく、後場の始まりで舟遊びをしていた存在とは異なる存在がそこにいるということは明らかなことに思われた。 勿論それは、シテの力量、地謡と囃子の力量の合わさった結果であり、そうしたことが常に起きるわけではなく、 この日演じられた演者の方々にとってさえ、一期一会の経験に属するようなことなのではないかと思えば、そうした場に 立ち会えた僥倖に感謝すべきなのだと思う。

だが、その上で、「仏を見た」という証言の方はどういうことなのか?ワキの僧は、性空上人がかつてそうであったように、 文字通り仏を見たのだろうが、その物語の上演を見所で観ている人間が「仏を見る」というとき、 それは正確に何が起きたということなのだろうか?能において、神様や天女が出てくるのは、幽霊が出てくるのと 同じことで別段珍しいことではないのだから、能の作品に仏が出てきても不思議はないには違いないが、 今回の演能を拝見して私が常ならぬひっかかりを感じているのは、そういう水準の話ではない。そうではなくて、 最高度の演能であればこその経験であるには違いなくとも、 技術的な達成といった次元を超えた何かに触れたのではないか、ということなのである。 それが私の主観的な思い込みであったとしても、それが私に起きたというのは疑いない。デカルトの意地悪な霊の しわざかどうかはこの際問題ではなく、そうであったとしても、それが起きたのは私にとっては疑いないことなのだ。

今回の演能の後半において私が経験した状態が、なんとも名状し難く、言語化し難いものではありながら、 演劇的な効果の水準を超えて、寧ろ祭祀や儀礼の次元に近い性質の、或る種の「神的なものの場」とでも名付けるほかないもの だったのではないかということである。その印象は自分の心の中の空間の中にたちまち同化して定着できるようなものではなく、 寧ろ謎めいて、容易に同化し難いものでありながら、寧ろそれが持つ力の作用によって自己の内面の抽象的な空間の中の 配置が変わって風景が一変してしまうような、自分にとって異質なものの経験なのである。

再びそれを反芻しようとしても、今となっては、演能を拝見したのは勿論のこと疑いえぬ事実だとしても、 そこで自分が「見た」ものが何であったか、どのようであったのかを正確に再構成すること自体困難であり、 己の風景の中に起きた変容を再認した結果をいわば間接的な証拠として、辛うじて確かに 何か見たに違いない筈だという他ない、といった有様なのだ。そしてもしかしたら、その同じ経験が、或る人にとっては まさに仏に変化する演技を鑑賞するのではなく、文字通り「仏を見る」ことそのものなのかも知れない、否、 いずれの日か、それが「仏を見る」ことだったのだと思い当たることになるのかも知れないという気さえするのである。

勿論、だからといって何か宗教的で神秘的な、あるいは超常現象の如きものを経験したと言いたいわけではない。何なら即物的に、 自分の脳内にあるネットワークの、普段は気付かない奥底の領域が測量されるような経験をしたという言い方をしても いいのである。「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための 儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」というのは、コンピュータ音楽、メディア・アートの領域で 際立った活動をされている三輪眞弘さんが音楽とは何かについての自問の中で記した言葉だが、能楽が、今回の上演のような 当代きっての名人達によって演じられたとき、まさに現代における最先端を見据えた異なる領域での問いかけに対する 応答になりうるようなポテンシャルを備えているのだということを身をもって経験したということなのだろうと思う。

私は日常として能に接しているわけではないから、まずもって能楽が演じられる現実そのものが自分の生きている現実との 接点を持たないということがまずあって、更に能が演じられることによって現出する時空は、それがかつて実際に起きた 事実に取材したものであったとしても、或る種ヴァーチャルな世界に属しているものなのだが、一見すると儚く無力に、あるいは 時として余剰で無駄にさえ見えかねない(実際、能楽に接することなく生きている人は大勢いるし、私の普段の生の圏に おいては圧倒的な多数派である)そうしたヴァーチャルな世界こそ、現実を生きる意味なり価値なりを与えるものであり、 ヴァーチャルなものこそ人間の精神にとってはなくてはならない次元なのであるということを認識したように感じている。 「仮の宿」というのは、そうしたリアリティとヴァーチャリティの認識における転倒を端的に言い当てた言葉ではなかろうか。

世の成り行きに巻き込まれていれば、自分がその中で遣り遂げたものの裡にも、何某か、自己の有限性を超えたものに 通じる途があるという信念すら危うくなってしまう。遊女の境遇にある者の語りは、時代も環境も全く異なってはいても、 自分には決して無縁なものとは思われない。仮の宿に心を留めて、随縁真如の波の立たぬ日もないというのは、まさに自分の生きる 現実のことに他ならないではないか。そしてそういう私にとって、今回、偶々「江口」の演能に接した経験というのは、 自分が生きる狭隘な世界における成り行きに対する無力感の向こう側に、自己の有限性を超えたものに通じる場が 気付かずして存在しているという認識を、単にそうした事柄を主題とした作品が演じられたという水準を超えて、 まさに上演そのものが備えている力によって、自己の有限性を超えたものに通じる場を現出せしめることによって 再認させる出来事であったといえると思う。こうしたことを確認もせずに言うのは不遜の謗りを免れないかも知れないが、 こうした経験をするときというのは、恐らくは演者の方々の心持ちが見所にも伝播して共有される、それもおそらくは 会場の大半を占めておられたに違いない、技術的にも充分な知識をお持ちで、常日頃から能をご覧になって、 その世界をずっと良く知っておられる方々だけではなく、一年振りに能を拝見するような私のような人間の心にも 伝わっていることの結果であるに違いなく、であるとすれば演者の方々もまさにご自分の力量によってそうした 「神的なものの場」が開けたのを経験されたのではないかというように思う。そしてもしかしたら、その経験こそ、 「仏を見る」という言葉で指し示されていたものに相違なく、ただ信心のない私にはそれが、そうと明確に 認識できるような形を取らなかっただけに過ぎないのではと。或いはまた、主観的には臨死経験として受け止められる ヴィジョンというのが、その人の文化的・宗教的環境に応じて異なるものになるにも関わらず、脳のある部位が 刺激されることによって惹き起こされるらしいというメカニズムの点では共通性があるという知見を思い 浮かべてもいいかも知れない。

勿論、観能の時間が終わり、 それをこのように反芻する時間も過ぎればまた、世の成り行きの波間に漂う状態に戻るには違いないけれど、 或る種の「神的なものの場」に接した印象は、それが客観的には錯覚であるとしてもなお決して無ではない。 能と同様に祭祀的な側面を持っていたギリシア悲劇を念頭にアリストテレスが定義した意味での カタルシスの作用は、単なる気分転換に留まることなく、かつて「魂」と呼ばれた心の或る領域に対して 不可逆的な作用を及ぼすものに違いないのだ。(ちなみにアリストテレスの悲劇論におけるカタルシスは、 それが登場人物についてのものなのか、観客についてのものなのかに関して諸説あることは、今回の経験から すれば寧ろ当然のことのように思われる。そもそもその2つを区別することができるような状況というのは カタルシスとは呼べないのではないか、と。)

いつものことではあるが、今回の演能がどんなに優れたものであったかについてはそれを語るに相応しい人達に 委ねて、私はここでこのように、普段能楽とは無縁の生活を送っている人間にとってさえ、今回の演能に接した ことがどんなに得難い経験であったかを証言することに留め、最後にもう一度、主催者を初めとする演者の方々や 拝見する機会を与えて下さった方々への御礼の言葉を記して、拙い感想の結びとしたい。

(2014.4.6,7,8 公開, 2024.7.14 noteにて公開)

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