アドルノのマーラー論末尾の引用 "Nacht ist jetzt schon bald."について
アドルノのマーラー論の末尾は、Nacht ist jetzt schon bald.という言葉が引用されて終わる。 これに対する新しい邦訳(龍村訳)に付せられた訳注が、あまり適当とは思えないので、 備忘のため私見を記載して置くことにしよう。その訳注というのは以下のようなものである。
ちなみに古い竹内・橋本訳はそもそも訳注を付けていない。 これはJephcottの英訳、Leleu/Leydenbachの仏訳も同じであり、些か不親切な感じがしなくもない。 とりわけ書かれて半世紀後の日本で読まれることを考えた場合、訳注を付けようとする新訳の姿勢自体は 適切だと思うのだが、専門のアドルノ研究者の手になる注に対して、時間的余裕においても、取得できる情報量 においても大人と子供のようなハンディキャップを負っているはずの市井の一マーラー愛好家がこのような コメントを付することについては、いつもながら複雑な気持ちにならざるを得ない。
ただし、インターネットが 普及した今日では、かつてに比べて、このような疑問を持った時の調査は遥かに容易になっており、 今回も私見の傍証となる情報がないか調べてみれば、瞬く間に入手することができた。玉石混淆、必ずしも 信頼できる情報ばかりとは言い切れず、その点の確認も求められるから、そんなに簡単ではないとはいえ、 学術論文を書くわけではなく、自分の疑問をプライベートに解消することに限れば、今後は寧ろ読み手が 自分で自己の疑問を調べて解明して行くような姿勢が求められているのだろう。
まず手短に事実を述べると、"Nacht ist jetzt schon bald."は、ベルトルト・ブレヒトの "Das Lied vom achten Elefanten"のルフランにあたる部分であり、アドルノの引用は恐らく間違いなく、 このブレヒトの詩の引用だろう。 この歌はブレヒトの『セチュアンの善人』という劇の中で歌われるソング・ナンバーの一つとして 作られた。初演は第二次世界大戦下の1943年2月、スイスのチューリヒ。ドイツの初演は戦後、1952年になって フランクフルトで行われ、パウル・デッサウが曲を付けている。(アドルノが評価していたブレヒト・ワイルの 組み合わせは事情あって実現しなかった由。)なお、この詩は日本でも別段未知なものではなく、 長谷川四郎さんの訳に林光さんが曲を付けた「八匹目の象の歌」という歌がある。
詩の内容、さらには劇についての情報はインターネットでも得られるし、デッサウ版の歌も林光版の歌も聴くことが できるようだからここでは詳細は割愛しよう。『セチュアンの善人』にせよ、「八匹目の象の歌」にせよ、 アドルノのこのマーラー論の結末の文章に語られている内容に応じたものであることは間違いなく、 半世紀後の21世紀の今日において、それをどのように読むにせよ、ひとまずはアドルノの「引用」を、 恐らくは本来あったであろう位置に置き直してみることには、訳者の言う「まともな理解」のためにも一定の 意義があると信じたい。
ちなみに、訳者が参照しているゲーテの『ファウスト』第二部第一章の 「夜はもうやってきた」というのは、恐らく4642行目のNacht ist schon hereingesunken のことではないかと思われる。勿論、訳者もはっきりと「思わせる」と書いているのであって、そのものであるとは言っていないが、hereingesunkenだと語感もかなり異なる上、(例えば相良守峯訳では、「夜は早や地上にくだりぬ」である。以下、『ファウスト』への参照は相良訳に従う。)この合唱の歌う「夜」は、その文脈から言っても「迫りくるナチズムとユダヤ人の悲劇の暗示」からは遠く隔たっているようにしか感じられない。ここでの「夜」は、第一部の悲劇の後で「疲れたる人」ファウストを「心ゆすりて稚児の熟睡(うまい)にさそ」い、「ふかき憩いの幸(さち)」をもたらすものではなかったか。私見では、ゲーテの『ファウスト』第二部第一章を連想するのはそれはそれで構わないとして、それを「迫りくるナチズムとユダヤ人の悲劇の暗示」を思わせる何か別の文献の引用の注に敢えて記す意味合いが率直に言って全く理解できないのである。
そんなことは些事拘泥ではないかとする向きには、アドルノがここで言い当てようとしたのとは別の何かとして マーラーの音楽が響いているに違いない。 Der muß vor Nacht gerodet sein / Und Nacht ist jetzt schon bald! と嗾けられ、その挙句に落伍し、 踏みつけにされ、見捨てられ、あまつさえ断罪され、有責とさえされかねない状況、真理がファンタズマゴリー としてしか経験できない状況は過去のものであるどころか、今日、他人事とも感じられない。研究の対象でもなく、 趣味の対象でもなく、まさに生きるための糧としてマーラーの音楽を必要としている、私と同じような境遇の Unterliegen、アドルノの別の講演によれば「レヴェルゲ」達のために、上記の事実を記しておきたい。
(2014.11.02, 2024.7.6 邦訳および訳注を付加した上でコメントを追加してnoteにて公開)
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