「火の鎌鼬」再演を聴いて
2015年10月12日 JTアートホールアフィニス:「男声合唱団クール・ゼフィール第9回演奏会」
湯浅譲二:男声合唱のための「芭蕉の俳句による四季」
三輪眞弘:女声傍観者達と5人の男声歌手のための「火の鎌鼬」
(藤井貞和「ひとのきえさり」より)
鈴木治行:「Hexagon」for 6 male singers
松平頼暁:A Person has let the "Kerry" out of the bottle
(男声合唱+女声合唱版・初演、詩:松井茂)
指揮:西川竜太
男声合唱:男声合唱団「クール・ゼフィール」
女声合唱(賛助出演):女声合唱団「暁」
10月12日の「男声合唱団クール・ゼフィール第9回演奏会」にて三輪さんの「火の鎌鼬」の再演に接した。 その後多忙と体調不良のために、しばらく時間が経ってしまったが、以下に感想を記録しておくことにしたい。 「火の鎌鼬」の初演は昨年2014年の3月30日に東京文化会館にて、この作品の委嘱者である ヴォクスマーナの第30回定期演奏会で行われたが、それには立ち会うことができなかったため、 私が「火の鎌鼬」に接するのは、このクール・ゼフィールによる再演が初めてである。 それゆえ従って両方の演奏の間の差異や初演後の作品改訂の有無等については詳らかにしない。
「火の鎌鼬」は、藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」に基く点において、まさに「ひとのきえさり」という タイトルを持つ作品と共通の素材を持ち、その一方で作品の構成規則として「蛇居拳算」を用い、その演算結果に 基いてサミュエル・ベケットのQUADから「引用」された舞台上の移動経路上を移動する 「蛇居拳舞楽」の規則に基いている点では、「みんなの好きな給食のおまんじゅう」や「59049年カウンター」と共通しているが、 特に「59049年カウンター」は、藤井さんの同じ詩に基いてもいるから、とりわけても「火の鎌鼬」は、 「59049年カウンター」とは姉妹作のような位置づけを占めていると言えるだろう。そこで以下の記述に あたっては、藤井さんの詩を含め、先行作と共通する部分のうち、自分が先行作に接した際の記録として 別に記述が存在する内容の繰り返しは避け、あくまでも「火の鎌鼬」自体についての感想に限定することにしたい。
他方で、一緒に演奏された他の作品は、それぞれ著名な作曲家の手になるものであるけれど、 私にとってはその作曲者の作品にほぼ初めて接するといって良いという条件であるが故、 作品についても演奏についてもいわゆる「批評」が可能であるような立場にないのはいつものことであるが、 今回は「火の鎌鼬」に接するにあたり、あるいは演奏の後でその経験を反芻するにあたり、 相前後して他の作品に接したことが少なからず影響したという事実があるので、 私が「火の鎌鼬」をどう受け止めたかを浮かび上がらせる限りにおいて、他の作品についても言及することにする。 繰り返しになるが、これは演奏会評ではありえない。それを求める方は、会場に必ずやおられたであろう、 それをするに相応しい方に尋ねるべきである。 同じコンサートで演奏されたそれらの作品は、今回、私個人については、或る種の「魔法の鏡」として、 三輪さんの作品の、とりわけても「人間の声」というものの現代における消息に関するポジションを浮かび上がらせる 機能を果したように思えるのだが、それはあくまでも私固有の経験であり、それは如何なる意味でも 客観性はなく、一般化もできないものであることを強調しておきたい。
この日の演奏会で最初に演奏されたのは、湯浅譲二さんの「芭蕉の俳句による四季」。 フィンランドの合唱団のために、芭蕉の句を詞とする作品において英語と日本語の併用するという作曲者の選択においては、 その視線は明らかに彼の地の演奏者と聴衆に向けられているのだろう。 だが、日本語のみならず英語にしたところで、フィンランド人にとってはどちらも外国語であるには違いない。 (とはいえ、彼の地においては、そもそも公用語の範囲にかぎっても、スウェーデン語、 フィン語という複数の言語が存在するのだが。)それは逆の立場(つまり例えばフィン語によって書かれた詩を、 英訳と併用するかたちで日本人に提示された場合)を考えれば直ちにわかることだ。 一方で「四季」の移ろいはフィンランドと日本では全く異なるものであろうし、 昨今、欧米でも「俳句」が盛んのようだが、それが日本の俳句とは「文化的記憶」を必ずしも共有しないし、 する必要もないのと同様、たとえ「翻訳」である事が意図されていたとしても、英語の詞と芭蕉の句が映し出す風景にも少なからぬ隔たりがあるだろう。結果として、 せいぜいが芭蕉の句の素材に基くヴァリアントでしかありないここでの英語の詞と芭蕉の句との距離感、 それら両方を素材とする「音楽」の三者の関係は、作曲者がノートで記している「文化の記憶」の幾許かを、 無意識の裡に継承している筈の私にとって全く想定外のものと化してしまうことも生じうるのであろう。 しかも今回はその作品を日本人の合唱団が、日本で、恐らくはほとんどが日本人の聴衆を前に歌うのである。 そこで浮かび上がる「四季」は一体どういうものであったろうか?
敢て単純化を惧れずに言えば、結果的に私が痛切に感じたのは、寧ろ同じ日本人における「文化の記憶」 の間にあるずれの方だったのだろう。私の記憶の裡には、例えば「松島に於て芭蕉翁を読む」を書いた透谷が居て、 芭蕉も透谷も訪れたらしい百草園(芭蕉の方は句碑が存在する)が存在するのだが、そうした私の内なる風景において、 そこに連なっているように自分では感じているものの居場所を、上演された音楽の裡には遂に見つけることはできなかった。 ここで透谷にとっては「翻訳」の問題があったことは勿論だが、それ以前に「日本語」そのものが、更には 芭蕉という「文化の記憶」をどう継承するかという点が、のっぴきならぬ大きな問題であったことを 思い出してみてもいいだろう。それは例えば「人生に相渉るとは何の謂ぞ」における芭蕉の句の、一見すると 独りよがりな解釈一つとっても明らかなことだ。 要するに上演された作品との間に「文化の記憶」の相対化の存在についての地平の共通性が ないわけではないけれど、そして疑いのない作品の質の高さにも関わらず、そこで「音楽化」された筈の風景は、 私には自分にとってはひどく疎遠なものに留まり続けたのである。その場にいて音響は間違いなく知覚されては いるけれど、自分が立っている地点からは焦点をどうしても合わせることができず、何が起きているのか わからないもどかしさを感じずにはいられず、ひどく惨めな思いをすることになった。
三輪さんの作品の後、休憩を挟んで演奏されたのは鈴木治行さんの「Hexagon」。図形楽譜を用い、時間的推移も 含めて不確定でゲーム的な作品。技術的な細部においてどのような工夫がされているのか、一聴しただけでは わからないが、技術的な危うさのようなものはなく、寧ろ既に開拓された領域における良くこなれた作品と 感じられる。プレトークで次回再演に触れ、音響的な実現は全く異なったものになる、との説明があったが、 それも含めて、慎重に過度の逸脱が起きないように管理された空間の中を動き回るのであれば、 都度の演奏を奏者が楽しむことはできようが、仮に熱心な聴き手が再演を聴いたとしても、聴き手にとっては都度、 或る断面が提示されるだけになることは避け難く、しかも大枠はじきに見慣れたものとなるに違いない。
作曲者の嗜好は素材となる音響の選択あたりにあるのであろうが、 伝統的には非音楽的とされるような種類のものも含まれ、更には音楽の進行の謂わば「外側」にある筈の、 持続時間に関する指示が音響的な素材として取り込まれている点も含めて、これもまた既に開拓済みの 領域の中からの選択に見えてしまうし、勿論身体性への配慮も周到になされてはいて、リアルなゲームの進行に 立ち会うスリルにも事欠かないが、それらは人が発するものであっても(「ゲーム」なのだから当然だが)、 結局のところ、中性化された音響素材としてしか受け止めようがない。 それは外部を持たず、一見自在に見えながら、実際には既知の(恐らくは「音楽」というラベルの貼られた) 閉域の中を動き回る。ゲームの自律性、自発性、自在さ、意味づけからの自由はそうした閉域があってのものなのだ。
そして私個人はといえば、そうした閉域が全く自明のものには感じられないし、あくまでも個人的な 価値判断に過ぎないが、如何に知的に洗練されたものであるにしても、そうした場での(「現代音楽」という 名の)ゲームに感心こそすれ、それを己の糧をすることはない。かくして私はそのゲームの成行きを、 (もしかしたらそれもそのように意図されたように、注文通りに)お客様として外から眺めるしかない。 いっそのこと、聴衆もまた外から、「あと何秒」という掛け声とともにゲームに乱入して作品を撹乱するなり 中断してみたら、というようなことが頭をよぎる。けれどもそうしたことは予め大枠として定められた自由度の中には 存在しないから、起きることはないのだ。かくして作品が産み出す時間経過は、私にとっては外的なものでしかない。 そこでの音楽的経験の時間は、如何に巧妙に計算され、意外性とスリルに事欠かなくても、 例えばディズニーランドのようなテーマパークのそれが提供するものに似る。そのことに対する自覚の有無に依らず、 コンサートは知的で洗練されてはいても所詮は高級な娯楽に過ぎない。
この日のプログラムの掉尾を飾ったのは松平頼暁さんが松井茂さんの詩に基いて作曲した 「A Person has let the "Kerry" out of the bottle」。30分近い演奏時間を要する大作である。 ただしその長大さは、ロマン派の音楽におけるような音楽的事件の経過の波乱万丈によるものでは勿論ない。 ある変換規則に基く9種類の「感情」の出現順序がパターン数4の巡回となるという点が、マクロな時間の経過を 規定している。プレトークで語られていたところによれば、如何に感情なしで書くかを試みてきたところに、 感情とは無縁の詩を素材にすることになったので、上述のように感情を盛り込んでみたとのこと。
だが上述のように決定される巨視的図式は極めて静的なもので、如何なる音楽的時間も産み出さない。 9つあるとされる「感情」のうちの1つがあてがわれる孤立した音響事象が9つ併置されることが更に 4度反復されるだけでしかない。確かに時計で計測すれば時間は経過するのだが、 まさに順序の交換が可能であることからわかるように、そこには時間の流れを構成する契機が欠落しているのだ。 (勿論それはまさにそのように意図されている筈で、逆にそうでなければ、 恐らくは作者の意図に反する結果ということになるのだろうが。) しかも各ブロックにあてがわれる「感情」は、勿論全く恣意的な記号というわけではないが、 実際には「感情」を喚起する音響的身振り・仮面の類に過ぎず、それは例えば、典型的にはロマン派音楽を 聴くときに喚起される感情とは全く無縁のものである。同じことはもともと感情がないとされる詩の扱いについても言える。 原因なく結果としての反応だけが恣意的にあてがわれることで、それは感情が感情であるためには何が必要であるかを、 その不在によって寧ろ逆説的に示唆しているかのようだ。そう、ごく単純に「外部」がここには欠落しているのだ。
結果としてここで聴き手が受け取るものは、いわば感情表現の抜け殻のようなものであり、それに対峙するのは高度に知的な 作業とならざるを得ない。もしかしたら奏者はそうでもないのかも知れないが、途中で退出することも許されず、 30分近くにわたり繰り返して持続する音響的イヴェントに対峙するのは大変な集中力と忍耐を必要とされるように思われ、 体調万全とは言い難い当日の私にとっては完全に自分の能力を超えた作業となってしまったことを認めなくてはならない。
それでは三輪さんの作品はどうだったのか?まずその過程は状態遷移のアルゴリズムによって厳密に決定されていて、 偶然性が入り込む余地はない。その力学的軌道は人間の心理や感情とは無関係なものであるけれども、その規則が 内在的なものであるが故に、そこに一定の音楽的時間の生じる余地がある。一方で男声合唱に委ねられた音響は、 それぞれ異なった仕方で、何れも極めて禁欲的な他の作品と比べても尚、極めて限定されたもので、藤井貞和さんの詩 「ひとのきえさり」に含まれる「火の鎌鼬」という一節を都度規則によって定められた音高で発声するだけである。 ここで取り上げられた藤井さんの詩の一節「火の鎌鼬」はh/n/k/m/x=0/t/chという総て異なる子音で構成されているが、 実はそれは「ひとのきえさり」全編にわたって貫かれている規則であり、そうした制約の下にありながらその全編は、 ナンセンスに陥るどころか、 プログラムノートに藤井さん自身が記したような架空の民族の叙事詩たり得ていることを考えれば、 その創作は或る種のtour de forceと呼ぶ他ない超絶的なものであることがわかるが、三輪さんの音楽においては その7つ(だからそれは日本語のそれと完全に等しいわけではなく、架空の言語の それと見做されるべきである)の子音音素は男声合唱の発声のピッチと、彼らが持つ、 音高を持ったプラスチックのパイプのそれに大まかに対応づけられているのである。 状態遷移の過程はその音素の分配の変化のプロセスでもあり、ここでは作曲者により慎重に選択された初期値 (というのも初期値の取り方によってその軌道は音楽的に興味深いものにもなり得るが、ほとんどの場合には そうではないであろうから)から開始され、 状態遷移の果てにその配置が初期状態に戻った時が作品の終りということになる。 更に状態遷移の過程は、既述の通り、サミュエル・ベケットのQUADから「引用」された舞台上の移動経路上を移動する 規則である「蛇居拳舞楽」により舞台上で身体的な動作として可視化されている。
実は上記のような消息は、この作品のみの情報に基くのではなく、冒頭で既に触れた、この作品とマトリクス (母型)を共有する他の三輪さんの作品群を俯瞰した時に窺えるものであり、この作品はそうしたツィクルスの中の 「抜粋曲」の如き位置づけを持っているのだが、それら一連の作品全てに共通するのは、作品の上演が (これまた具体的に想像するならば「架空の」ということになるだろうが)儀礼としての性格を持っている点であろう。 儀礼性は中世ヨーロッパの聖歌や能のような日本の伝統芸能に見られるように、実際には寧ろ音楽の持つ普遍的な性格で あるかも知れないにも関わらず、今日の日本における現代音楽のコンサートの中では際立った異質性を放つことになる。 技術的な側面では共通する部分が無いわけではない、この日のプログラムの他の作品との最大の違いは 何といってもこの点にあるだろう。儀礼性が意図されている点は、舞台への奏者の入場の仕方の工夫により、 通常のコンサートでは「しきたり」である筈の開演前の拍手をするタイミングを排除してしまっている点からも 明確に窺える。恐らくはルール通りに間違いなく遂行されることが、美学的・芸術的な観点よりも優越する (ただし後者が全く無視されるわけでは勿論ない)点も儀礼としての性格に起因する。ちなみに合唱が声だけではなく身体的な所作をも行うことは、その歴史を起源まで遡行すれば何ら特異なことでもなければ、外的な「付け加え」でもない。まず古代ギリシアの例えばホメロスやギリシア悲劇におけるコロスのことが思い浮かぶし、キリスト教典礼においても合唱隊が独立して分離する以前は、司祭達が合唱者を兼ねたこと(なお、この点は能楽における地謡の分離の過程を思わせる)は、今なおChorが教会の内陣を意味することからも窺える。合唱についてもそうだが、音楽も語源となる古代ギリシアまで遡ればどうなるかについてては別のところで論じたので、ここでは繰り返さないけれど、三輪さんの試みがその儀礼的な位置づけと併せ、音楽や合唱というものの起源を思い起こさせるものであることは指摘しておきたい。
ただしこの作品固有の側面も勿論あるわけで、ここではその中でも恐らくは最も目立つ点に違いない、 「女声の傍観者達」の役割に言及しておくべきだろう。彼女達は仮想的な「儀礼」の「傍観者」なのだが、 その基本的な「役割」は、定められたタイミングで起立して「火の鎌鼬」(および各パイプの組み合わせによる アナグラムである「町の火、大火」、「火の玉近い」)と囁くことにより儀礼に参加する 以外は、「蛇居拳舞楽」の規則に従って行われるパイプの交換が行われると拍手を行うという点に存する。 それ以外にも、恐らくは儀礼の規則が書かれたノートを見て、隣と雑談したり、儀礼の所作に対して指差しながら コメントしあうといった「演技」も為されるが、それらは拍手と相俟って、「傍観者」性を強調するかのようだ。 私は思わず、文楽公演の開幕前の三番叟におけるお辞儀を自分達に対するものと勘違いして拍手をする観客の ことを思い浮かべてしまった。それが儀礼であれば拍手は寧ろ場違いなものであるいうのは、だが、 日本の伝統だけではない。西欧の伝統においても、ミサ音楽やレクイエムの音楽の上演が典礼として行われる場合には 勿論拍手はしない。それは観客に対する見世物やディズニーランドのショーとは異なって、超越者に対する 「奉納」であるからだ。勿論、ここでの「儀礼」は仮想的なものであり、所詮はコンサートの一部に過ぎないから、 ここで演奏後に拍手をすることが場違いになるわけではない。だが、その拍手の意味するものは、 作品の中で「傍観者」によって示されてしまっているのである。(「火の鎌鼬」初演の際に、実際にこのような 「傍観者」そのものの態度を示した聴衆が客席にいたらしいが、だとしたらそれは大きな皮肉という他ない気がする。)
合唱のコンサートのプログラムには相応しくないと感じる人が居てもおかしくない、音響的な側面の 禁欲性について言えば、私はこの作品とは異なる系列(「新調性主義」)に属する三輪さんの作品 「永遠の光、、、」を思い浮かべずにはいられなかった。そこでの問題は祈りの不可能性ということであったが、 最早かつてのように祈りの歌を感情を篭めて歌うことが不可能性であるという認識が、この「火の鎌鼬」においても 前提となっているように思えたのである。(なおかつそれは、「新しい時代」の系列の作品において、 架空のカルト教団の信徒歌曲として書かれた作品が人間によって朗々と歌われるのと対照的である。) そもそも「火の鎌鼬」とは、「永遠の光、、、」の伝統においてはDies iraeの事に他ならないだろう。 「59049年カウンター」が1000年に一度の大震災と、その結果発生した原発災害を記憶するために 書かれたのと同様に、この「火の鎌鼬」も、架空ではあるが、既に絶滅した民族の滅亡を記憶するための 儀礼であるのだとしたら、その民族の言語の構造に寄り添った「音楽」が、このような姿となることは、 寧ろ自然なことではなかろうか。
上記のように、この作品においては、架空の民族の「文化の記憶」の継承という形をとって、 出来事の記憶の継承が如何にして可能となり、そこで「音楽」がどのように可能となっていくかを 示しているのだが、ここでの「音楽」は、自然法則のような秩序に支配されていて、個人的な 感情や心理の表現といった側面は排除されている。だが、しばしば三輪さんの作品の上演に接すると、 一見逆説的に見えるが、こうした儀礼の中から、他ならぬ「音楽」を通じて、 その儀礼に参画する人間の奥底に秘められた感情が浮かび上がってくるような印象を覚えることがある。 「火の鎌鼬」においては、上述の「傍観者」の介在もあって、それ自体が困難であるという現実が 強く示唆されているように感じられたが、それでもなお、「蛇居拳舞楽」の規則に基いて展開する儀礼の中から、 何かが湧き上がってくるような感覚を覚えたこともまた確かである。それが具体的に何なのかを 言語化することは困難だが、まさにそうした言語化困難な何かを可能にするのが「音楽」の力であり、 危険でもあるのだろう。プラトンが既にその危険に感づいていた一方で、 ベイトソンはその力を20世紀以降を生きる人間のために必要なものと考えていたようだ。 このコンサートにおいて私が強く感じたのは、そこにおいて「感情」というものが極めて 重要な役割を果すということであり、自分の中にある、自分固有のものである「感情」と 上演された作品が本質的な接点を持てたのは、三輪さんの作品においてのみであったということである。
3連休の最終日の午後、霞ヶ関から外務省の脇を通って虎ノ門の会場に向ったせいもあって、 一層閑散とした感のある都心のホールに集まったのは、作曲者や作詞者を除けば、室内楽用ホールの 多くはない座席をようやくまばらに埋めるだけの恐らくは3桁には達しない、一部の熱心な聴衆のみ、 親密な雰囲気のあるコンサートであった。必ずしも身構えてではなくても、現代音楽の先端の実験を 受け止めるには充分とは言えない体調であった私にとっては、合唱という、接してきた期間からすれば、 個人的には寧ろ他の媒体と比較しても長く、かつ実践にもわずかながら関わったことのある媒体を用いて、どんなことが行われているのかを垣間見る良い機会では あったものの、上述した内容から明らかなように、個々の作品についてその意義を充分に受け止めることが できなかったことを正直に告白せざるを得ない。
その後、体調の恢復を俟つうちに多忙に紛れて感想を纏めるのが遅れたが、ようやく筆を執るきっかけを 与えてくれたのが、「人間の声」の扱いに関しては、このコンサートで演奏された作品それぞれから等しく対極にあると 見做されるであろう合唱曲、ヴェルディのRequiemの末尾、Libera me, Domine...の演奏記録に偶然に 接したことであったことは、恐らく偶然ではないのだろうと思う。 おそらくそこには1ヶ月前に聴いた、フォルマント兄弟によるMIDIアコーディオンによる リアルタイム合成人工音声のアルトと人声のソプラノが歌ったペルゴレージのStabat Materの演奏の 遠いエコーが存在しているに違いない。「音楽の死」の後産み出されたこのコンサートホール向け「宗教音楽」については、 ペルゴレージの作品が既にそうであったのと同様に、ハンス・フォン・ビューローの有名な声明を始めとした 「宗教性」に纏わる非難がついて回っている。だが私はあの「ドイツ・レクイエム」を書いたブラームス が、「音楽」の死を最も意識的に生きた人であったに違いないブラームスが、 同時代人としてこの作品についてどう言ったかを知っている。
幼少の時に無心に接して後、クラシック音楽を聴くことに関しては先輩にあたる多くの人々から異口同音に そうした批判が語られるのを黙って受け止めるしかなかった子供は、だが今(そう、意識の構造が科学的に 解明され、感情についてもようやく解明の緒についた今)、こう呟きたくなるのを堪えることができない。 そういう批判はすべて「感情」について、人間の心の内部と外部の関わりについて、そしてそれらと 「宗教的経験」との関連について、そして「音楽」とそれらの関わりについて、 意識自身が産み出し続けている虚構に捉われているのではないか? 勿論、今、ここでヴェルディのRequiemのような作品を作るのが最早不可能であることは明らかだ。 そしてその点に関して私は、三輪さんのLux aeternaを思い浮かべる。 逆説的な仕方ではあるけれど150年後のレクイエムは、そのようにしかありえないのだ。 そしてまた、Stabat Materは今やあのように歌唱されるべきだし、 今、Dies iraeを書けば、(傍観者の態度も含め)「火の鎌鼬」のような姿でしかありえないのではなかろうか? であればLibera meはどんなものになるのだろうか?テクノロジーに侵食され、ポスト・ヒューマンに到る特異点の、 意識という構造自体の消滅、内面性の消滅の少し前で、だがそれを待つことなく、内面に閉じ込められ、 個別の死に向き合わなくてはならない意識にとってのLibera meは?
勿論こうした反応は、その日の体調という偶発的な要因のみならず、洋の東西は問わず、どちらかと言えば保守的な耳を持つ 私の個人的な事情によるものであることは間違いないことであって、最初に述べたように、ここで演奏された作品と、 このコンサートにおける演奏や解釈については、それを語る資格のある他の方の評価に委ねる外なく、 私としては、音楽を聴く楽しみという点では(2ヶ月前の、同じ現代音楽の、室内管弦楽のコンサートと 比較をすれば殆ど言語を絶すると言う他ないのだが)、それを享受するというには程遠いものになってしまったものの、とりわけても「人間の声」というものの現代における消息に関する 三輪さんのポジションを確認できただけでも収穫があったと考えるべきなのであろう。 寧ろ、個人的にはまだ実演に接していない「みんなが好きな給食のおまんじゅう」のような関連作も含め、 マトリクス(母型)を共有する他の三輪作品と併せ、そしてあわよくば現在において可能なLibera meとともに、 もう一度「火の鎌鼬」の上演に接してみたいということを強く感じた演奏会であった。
(2015.10.25初稿。10.26指摘を受けて修正の上、公開。10.29,11.1加筆, 2024.9.27 noteにて公開)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?