覚え書
私は同時代の音楽に対して格別の関心があるわけではなく、熱心にその可能性を渉猟しようという熱意の持ち合わせも 時間的な余裕もないのだが、その中で三輪眞弘の音楽は例外に属する。私にとって本当の意味で「同時代的」といえる 現在進行形の試みとして、(私は音楽家ではないが、にも関わらず)自分自身の問題意識をそこに投影することができ、 その姿勢に共感し、あるいはまたそのアプローチのある部分に反発を覚えるといった点で際立ってアクチュアルな存在なのだ。 だから、ここに書く内容も現在進行形のものであり、自分の考えの進展や立場の変化に応じてそれは変わっていく可能性も あるだろうが、現時点での同時代の聴き手の反応の記録として書き留めておきたいと思う。いわゆる現代音楽については、 音楽の享受者に過ぎない人間が何かを書くのは難しい。ましてや同時進行の試みについて書くのは暴挙かも知れないが、 ここではどちらかといえば自分の整理のために書くことにする。
三輪の音楽の私の受容の仕方で、他の作曲家(現代作曲家の作品も含めて)とはっきりと異なる点は、三輪の音楽の場合には、結果としての面白さが 常に保証されているわけではないことが気にならないこと、にも関わらず、結果としての面白さが(少なくともうまくいっていると私には思える一部の作品 に限って言えば確実に)存在すること、そして同時に、その面白さのゆえんが一体どこにあるのかがよくわからないことだ。
三輪眞弘は世上、コンピュータ音楽の作曲家ということになっているし、私の関心を支える一つがその点なのだが、 もう少し言うと、私が興味があるのは、そのコンピュータに対するスタンスの特異さによるものが大きい。 実は、私はコンピュータ音楽というジャンル自体にはほとんど興味がない。コンピュータの作曲への関わりは 多くの場合、音響分析や合成の道具として使ったり、他のメディアとの融合をするための編集ツールとして 使ったりする方向性のようだが、そちらの方向には全く関心がないからである。 私が興味を持つ方向性は、コンピュータに音楽作品の構造を計算させる方向、あるいは一歩進んで、 コンピュータ自身に作曲をさせるようなアルゴリズムを与える方向である。
コンピュータを作品の構造を決定するために使用した作曲家といえば、まずクセナキスが思い浮かぶ。 だが、クセナキスには人間の認識の限界の意識や、別種の知性の予感のようなものがあったものの、 コンピュータにその知性を感じ取っていたわけではないようだ。 新たな認識の可能性はあくまでも人間が切り開くものであり、コンピュータは高級な計算尺に過ぎず、基本的に道具であった。 しかもそれは作曲の過程のある一部を補助する役割を果たしているに過ぎず、作品の制作の本質的な部分で コンピュータの側からの作用があったようには思えない。クセナキスの音楽を特徴付ける、あの己の制御できない暴力に 抗おうとする意志は、むしろコンピュータを用いないで書かれた作品や部分によりはっきりと感じ取れるのは興味深い。 コンピュータが計算して発生させた音響を聴いては捨てる彼の作曲の仕方もまた、結局、クセナキスが優れた作曲家で あったのは、コンピュータを用いた作曲のプロセスにあるのではなく、テクノロジーに対する姿勢にあるのでもなく、彼の「外」への 感受性の鋭さと深さによることを裏付けているように思われる。
結局のところ、私にとっての現時点での三輪の音楽の魅力は、まず第一にアルゴリズムの適用される局面へのこだわりにある。 スペクトル楽派的な音響分析や合成は、音楽の垂直次元の方法論でしかなかったし、音響合成の方法が 生み出される作品を規定してしまうといった弊害を産んだのに対して、あるいはクセナキスの方法論の多くが、 音楽の(時間外構造ということばが端的に示すように)おおまかな構造を規定するだけで、細部については 直感的な選択によって音が選び取られていたのに対して、ここでの方法論はもっとトータルで、徹底的なもので、 それゆえ最も可能性のあるコンピュータへの接し方であると思う。
だが、アルゴリズミックな作曲法はそれ自体で結果の面白さを保障するわけではない。方法論としては興味深くても、 結果としての音楽はどうしようもなくつまらない、という例は前衛的な姿勢がとられている限りではめずらしいことではない。 しかしながら(残念ながらすべてというわけにはいかないが)、幾つかの作品では、単にアプローチが興味深いだけでなく、 音楽として興味深いものになっているように思える。その理由は現時点では判然としないが、その具体的な実現方法には 必ずしも首肯できないものが含まれているにしても、コンピュータを用いることを必須の要素として含んだアルゴリズミックな 作曲法と人間とのかかわりをはっきりと意識している点、音楽が生み出され演奏され、 享受される環境に対して批判的な意識をもっている点が、 その音楽に独特のユーモアを伴った魅力を与えているのは間違いないように感じられる。
例えば初期作品BQMOVM1E(1986)で用いられたスタックを持ったオートマトンによる音楽のマクロな構成の決定は興味深い。 ミクロな構造は主題の転回や反行などによる模倣により作られる。 あとは、変奏や装飾、拡大や縮小か?何があればいいのか? フーガはオートマトンだというクセナキスのことばが思い出される。一方で、主題自体を乱数で生成するのではなくて、 主題のみ外部から、ようするに人間が与えたらどうなるのか、という問いが反射的に浮かぶ。 もともと人間がやる即興演奏もそういったやり方だった。主題を与えられると即興演奏をするプログラム。 確かにアルゴリズミックな作曲の結果を人間が演奏することには意味がないかも知れない。 (もっとも後の「逆シミュレーション音楽」ではそれが実行に移されてしまう。私にとってはそれは或る種の退行に感じられる。) それに対する三輪のその時点での答えはインタラクティヴなシステムということになる。 人間の伴奏をする、あるいは人間と合奏するシステム。そして、それは「東の唄」(1992)のような充実した作品を生み出すことになる。
だが、そこで解決したのは音楽の技術を保有する側である作曲者と演奏者の間の問題に過ぎないともいえる。 現代音楽では作曲と演奏の境はしばしば曖昧になる。作曲家も演奏者も、誠実に音楽とは何か、音楽が何の役に立つのかを 常に問いかけ、自分の途を切り開いていく。その一方で、例えばワークショップでは聴き手は常にお客さんだ。 聴き手は取り残されてしまう。創作の秘密、演奏の秘訣が明かされることがあっても、それはいわば芸談の類に過ぎない。 演奏を聴くのも、芸談を聞くのも所詮消費には違いない。 勿論、それでは聴き手=作り手であるような集団作曲の方法論が解決になるのかといえば、当然そんなことはありえない。 もしそうならば、ここにコンピュータという他者が介在する必要などないだろう。(「逆シミュレーション音楽」 では実際に、コンピュータの他者性は、アルゴリズムを準備する作曲者の背後に隠れてしまうように見える。 例えば有限の型の選択と組み合わせにより、盆踊りの振り付けを考えることとの違いはどこにあるのだろう? アルゴリズムの生み出すパターンの複雑さが「推奨」されるが、所詮はそれは定められた軌道の中をうろつくだけなのだ。 そしてそこでの間違いの価値は、西欧的なオーケストラパートでのそれと何ら変わるところはない。装いと裏腹に、 「逆シミュレーション音楽」において一体何が本当に変わったのかは、検証すべき事柄であるように思われる。)
勿論、比喩ではなくて(あるいはデネットのいうところの「志向的スタンス」としてでなく)コンピュータと対話したり、 共同作業するのは依然として無理だろうが、コンピュータを道具として、あるいは操作の対象としてみるのではなく、 自分が埋め込まれた環境の一部、自分と同じく環境の中で相互作用をするエージェント、他者として、 原理的には恐らく自分と交換可能なものとして意識するような姿勢は可能だし、ある対談で三輪自身にとって コンピュータがそのように捉えられていることが確認できる発言があるのは興味を引く。
コンピュータは作曲の過程に積極的に関与する。例えばプログラムを与えて即興演奏を行わせることは興味深いが、 それ以上に、そこでコンピュータから出てくるものを作曲の過程にフィードバックする、しかも単にそこに限界を見て、 使い方を制限するようなかたちではなく、その可能性の境界を行き来するような接し方ができるのであれば、一層興味深いだろう。 そして、三輪はそうした方向性の実践においてユニークであるし、しかもそこでこそ最も成功しているように思われるのである。
もっとも、コンピュータに即興演奏させる、といえば聞こえはいいが、実際にはコマンドとして送られるキューをきっかけに 音響をサンプリングし、それをあらかじめ作成されたアルゴリズムに従って変換するに過ぎない。予測の不可能性が 乱数によって与えられるのであるとしたら、それはチャンスオペレーションによって音楽の過程を決めていくことを 人間がやるのと、実際に起きている事態においては大きくは違わないという見方もできる。
だが、にも関わらず、作曲においても、またおそらくは演奏においても、「志向的スタンス」の違いはとるにたらないわけではないだろう。 コンピュータを道具と見なさない姿勢は、現実にコンピュータが達成できている水準を考えれば、ある意味では 理想主義的な、ロマンティックと言っても良いような姿勢とも言えるが、そうしたスタンスを維持しつつ、 結果を継続的に発信しつづけること、しかも単なる実験ではなく、作品の制作において聴き手の興味を ひくような結果を出すことは容易なことではないに違いない。 またそれだけではなく、アルゴリズム、方法の重視を前提にすることにより、人間への視点が相対化されている点にも注目すべきだろう。 それは人間と機械の境界をあいまいにしてみたり、人形やロボットと人間を交換可能なものと考える立場に繋がっているに違いない。 勿論、それはコンピュータを人間と同一視するということを意味しない。道具としてではなく、環境に存在するエージェントとして捉えることで、 道具としてみた場合には単なるバグに過ぎないものが、逆に人間である自分の成り立ちを、その特殊性を浮び上がらせるのだ。
例えば、アルゴリズムを重視したコンピュータによる作曲ををどんどん徹底していくと、人間は消えてしまう。自律的な作曲プログラム(それは最低限、 アルゴリズムそのものを生成できるものである必要があるだろうが)ができた暁には、プログラムの作者は、もはや作曲の主体ではないだろう。 一体、作曲された成果物の著作権は、プログラムの作者に帰属するのか、それともプログラムに人格を認めるべきなのかといった問題が出るだろう。 実際にはそれはSFでしかなく、現実には製作者のアイデンティティは寧ろ、仮に消したいと思ったところで消えるものでもない。
だがSFを承知でその世界に足を踏み込んでみたところで、製作者も含めた、人間の問題は依然として残っているのだ。 とりあえず音楽とは、まずは人間のものなのだ。 人間が消えていなくなった無人の地に自動作曲するシステムが誰に対するのでもなく音楽を生成し続けるのではないだろう。 なぜ音楽を作るのか、という問いをコンピュータが持つことはとりあえずはなさそうに思えるが、それでもなお、 レムが「虚数」や「ゴーレムXIV」で描いたような状況を フィクションの中でなく実際の制作活動の延長で考えることができるというのは、それだけでも興味をひかずにはおかない。
そしてこの点で、私は三輪が日本人であることを強く感じる。 その音楽で日本民謡が使われているから、あるいは謡が使われている(「Dithyrambe」)から日本的なのではない。 「東の唄」が、柴田南雄の日本音楽の分析に示唆をうけて、その基本的な構造を決定されていることは、音楽に日本的な 色彩を与えはするだろう。だが、それは素材の決定という水準での選択に過ぎない。 ヨーロッパの音楽にモードとして東洋的な味付けをすることは、もう既にやり尽くされている。
それよりも、出自は西欧的な方法論を扱うその手つきに、コンピュータを自分の創作の環境に存在するエージェントとして見做せる態度に、 あるいはコンピュータを介して身体性を考えるという「志向的スタンス」に、三輪のスタンスの独自性が現れているように思える。 それはイメージされたものとしてではなく、いわゆるドクサのレベルでの西欧と日本との間のずれを結果として浮び上がらせているし、 同時にそれは、現状では避け難いそうした志向的スタンスの破綻を逆手にとって、人間とコンピュータの間の齟齬を表現にもたらすことに 成功しているようだ。そのスタンスはその音楽にどことなくユーモラスな雰囲気を醸し出しているように感じられる。そして 恐らく、西欧の(例えばドイツの)音楽家は、このようにコンピュータと人間との間を、そして人間と人形や機械との間を 融通無碍に往還することはできないに違いない。それは例えば人工知能や知的なロボットの問題に対する姿勢に見られる 西欧的な発想と日本人の発想の違いとも通じるものがあるような気がする。
繰り返しになるが、「志向的スタンス」といい、アルゴリズムへのこだわりといい、それらはそれ自体で結果を保証するものではない。 前衛の或る種の立場では、新しいコンセプトを打ち出すことそのものに価値があるのであって、結果は二の次なのだ、という考え方も あるかも知れない。そうした考え方も含めて、こうした方法への拘り自体はいわゆるモダニズムの延長であり、その姿勢自体は 際立って西欧的なものといえる。私は結果についての責任はとらないようなスタンスに対しては一般的には懐疑的なのだが、恐らくそれは 聴き手として結果だけを受け取るスタンスが身についてしまっているからだろう。そしてここでは、その問題意識への同調が、例外的に そうした懐疑をせき止めてしまうようなのだ。
勿論、音楽家でない人間が、どうして問題意識を共有しているなどと言いうるのかと問われれば、勝手な思い込みに過ぎないのかも 知れないが、コンピュータを環境の中の他者として捉えることで起きる問題については、音楽家でない私にとっても充分に自分自身の 問題でありうるという個人的な事情もあって、ここでは寧ろ結果はともかく、方法としての一貫性や見通しといったレベルの問題でも、 充分に興味深いものだし、そうした方法への拘りが寧ろ好ましいもののように思われる。
方法への固執は、恐らく東洋の智慧では用心深く回避されるはずのもので、「怒れる若者」が、ドイツで居場所を見つけることができた ことと通底するだろう。それは日本で活動する今、寧ろある種の不器用さともとれるような徹底ぶりで、 色々な前衛手法を手際よくとりいれる結局のところ「和魂洋才」的な融通無碍さとの距離は大きい。 そしてその点が三輪の音楽が大きな共感を呼ぶ魅力の源泉の一つであるのは間違いがないと思う。
そもそも考えを文章にすること、方法を一つ作り上げることは、実際にはそんなに簡単なことではない。 自分の考えを方法としてまとめる自体、実際にはとても困難だ。(三輪自身も正直にそのように語っている)。 なぜなら、方法というのは、それが制作で有効である以上、決して固定的なものではなく、それまでの営為とその時の状況にあわせて作らなければ 利用に耐えるようなものにはならないからだ。 たいていの人間は、自分の考えに筋道をつけて一貫させるということをやりもせずに、他人の立場の揚げ足をとる。 方法を批判することは多分たやすい。批判はいつも簡単なのだ。 批判することの方がはるかにたやすいし、生産的な批判はむしろ稀かも知れない。 ある方法はある立場に立っているのに対し、批判はそれ以外のどんな立場からでも可能だからだ。 方法を捨てること、方法を作ること自体を批判することは、一度は方法を作り上げた人間にしかできない。 方法を作った経験がないものに、方法を蔑む資格はない。 倫理的にもないというのは勿論だが、それだけではなく多分実際問題として批判することは不可能だろう。 かつまた、方法を捨てることは、それ自体一つの賭けだ。方法を作り上げることは環境の中に埋め込まれて生きている生物に相応しい。 それを捨てることが単なる不作為に陥る陥穽を避けることは、徹底して方法を作ることに意識的であった人間にしかできないだろう。 それは捨てるというよりかは、方法であることに無意識になる、忘れてしまう、ということに近いかも知れない。 だから、まず自分のやっていることを批判的に検討し、意味を吟味して、方法として言語化し、それを実践するその妥協のない姿勢に共感を覚える。
だが同時に、そのことが作品がどこで完結するかを見えにくくし、それゆえ作品が常に未完成の、実験途上の感じを与えているのかも知れない。 初期の試みのとりあえずの到達点と見なされている「東の唄」でさえ、固定され、確定し、完成された作品であるという印象は希薄だ。創作時期を問わず、 どの作品の録音も、どことなく一時的に定着された試行といった感じが強い。ここではコンセプトや方法、問題意識が現実よりも先に行っていて、 まるで現時点では埋め難い溝が、いずれ解決されるのを待っているかのようなのだ。(実際には、溝が埋まるかどうか自体確かなことではないのだが。) 疑いなく充実した作品でありながら(何と言っても面白いといえばこれくらい面白い音楽はない)、伝統的な意味合いでの確定した 作品の概念との間にずれがあるような感じがある。あるいはそれが「逆シミュレーション音楽」のような展開にどこかで繋がっているのかもしれない。 実際に「逆シミュレーション音楽」において、作曲する行為や作曲の主体の地位についての考察は行われていて、決して、こうした問題が 棚上げにされているわけではない。ただし、それを実際に実現されている水準に限定したら、共同制作の問題等といった、ある意味ではありきたりの レベルに戻ってしまうし、私見では、その試みの興味深さにも関わらず、得られた結果としては、「東の唄」以降、日本に移ってからの試みは、残念ながら 成功しているとは言い難いように思える。
例えば「SendMail」(1995)のアイデアは魅力的だ。私は思わずレムの「天の声」を思い浮かべた。或る種の誤読。ある別種の器官と(従って)文化を持つ生物が 人間が書いたメールをある時発見したとする。勿論、メールのメッセージが何に使われたのかはわからない。 そこで使われている言語の体系の知識がないだけでない。メールの内容の背景となる生物学的・文化的知識がない。音楽でないものと音楽との間に 写像を定義するという点では似た発想を持つ「兄弟deピザ注文」(2003)であればピザとは何かわからないし、注文するということがどういうことかが分からない。 その情報を彼らの器官の文化で辛うじて意味のある形態に解読すると、それは或る種の音響の系列に翻訳される、などなどといった連想が起こる。 この場合には、結果としての音響が「美しい」かどうかなどといった価値判断の基準は意味を持たない。そして、それはそれでこの場合については 構わないように思える。猿がシェークスピアをタイプする偶然を期待する必要などありはしないだろう。
だが、これをパフォーマンスとして人間が演じることは、それを眺めることには一体どういう意味があるのか?音を人間が演奏することによってメールを出したり、 鍵盤を押すことでピザを注文することに成功するかどうかに興味が集中してしまうのは、後の「逆シミュレーション音楽」にも見られる (そこではアルゴリズムを人間が間違いなく実行するかどうかが問題視される)転倒だが、 この転倒に私は或る種の不気味さを感じる。 その不気味さこそが意図されたものであるとしたら、それでも良いのだが、後述する擬似カルト的な環境の設定といい、 批判が批判される当の対象に転化してしまいそうな危うさを私は感じてしまうのである。 転倒が意図されたものであったとしても、それが予期せぬ方向に受容されるのを認めるのは方法に固執する立場からすれば一貫しない。 少なくともここでは方法に、結果についてのコミットメントが生じている筈なのだ。
そうした危うさは、「逆シミュレーション音楽」にもあると思われる。 方法論上は「逆シミュレーション音楽」は一つの到達点であり、同時にブレイクスルーであったには違いないだろうが、 それとてあくまで、自律的に音楽を生成する主体が人間ではないという点があればこそであって、 架空の伝承を作り出し、集団で決められたアルゴリズムを人間が間違いなく実行するプロセスが表面に出るのは、 人間の身体性が変容してしまっている現実を浮び上がらせる批判的な意図があったとしても、 そうした意図を超える結果を招来しそうな危険があるように思える。 架空の伝統はレムの「ビット文学の歴史」のような方向性と比べると、そうしたフィクションを支えている生物学的・文化的な蓄積を 指し示すという過去への志向において、一見したところボルヘス的に見える。 実際にはそうした伝統の仮構自体が目的ではないところには共感できるものの、私見では、架空の伝統は寧ろ、 (繰り返しになるが、レム的に)架空の生物あるいはそれに類するもの(人形でもロボットでも良い)のものである方がより 興味深かったのではないか。 それとは別に人間、不正確で間違いを起こしやすいシステムとしての人間が、そのような方法論とどう関わるのか、 という論点があってもいいとは思うが、「逆シュミレーション」が、たかだか人間の営みの出発点なり原点なりを指し示して、 結局、神話を反復するだけのものに縮退するのはあまりにもったいない。 作曲する主体にとってコンピュータがそうであるように、人間の犯すエラーを、二度と同じことができないが故に、 間違えない(実際にはコンピュータは規則に従っているわけではない)し、違ったことができないコンピュータが 抜け出せない軌道にゆらぎをもたらすものとして、アフォーダンスを引き起こすものと して捉えるような視点があるべきだと思うし、それは寧ろ、コンピュータのアルゴリズムの徹底によってしか可能ではないのでは ないかというような気がしてならない。 身体性は対象として扱うべきものではなく、その中で動き回る場であるべきだ。 身体性を主題化すれば、それは身体を通した操作の方法論化に帰着する。そこには立ち止まるべき閾などありはしない。
同様に、それがパロディであっても、擬似的なものであってもカルト的なものへの傾斜には私は疑問を感じる。 同じことの繰り返しになるが、結局のところパロディは一定の模倣を、ミメーシスを伴う。 要するに、片足を突っ込まなければパロディにはなりえない。 だから、ここでは誠実さは危険と引き換えになっていて、一歩間違えればミイラ取りがミイラになりかねない。
ネットワーク上で永遠に音楽を生成しつづける作曲主体としてのコンピュータというのは、擬似カルト的な装いを取り払ってしまえば、 私にとっても幻惑的なものに違いない。 (またしても、だが、レムの「天の声」のあのニュートリノによるメッセージを思わせる。) だが、ここではそのアルゴリズムは単純なものであってはならない。 単に同じ音楽が二度と流れないだけでは恐らく不十分なのだ。 コンピュータが作曲の主体であるというスタンスをより徹底させること、結局のところ、アルゴリズムを洗練させ、 人間との間の関係のあり方を更新させていくべきなのではないか。例えばシステムが自分をどんどん 書き換えていくような方向にいかなければ、このアイデアの魅力は薄れてしまわないだろうか。
クセナキスがそうであるように、方法を作り上げ、信じて何かを作り上げるのは、その方法が厳密であればあるほど、 ロマンティックで夢見がちな行為になる。 それはある意味ではとても首尾一貫した態度であるとも言えるし、行為に対して、常にそれを批判し相対化する視線を持ち、 方法を作り上げると同時に懐疑することで相対化してしまう姿勢(それは東洋の智慧に通じるものがあるかも知れないが)よりも、 個人的にどこかでより共感する部分があるのは否定しがたいのだが、 私見では、逆シミュレーションにおける架空の伝統による人間の再編入や、カルトのパロディの方向ではなく、コンピュータと人間との (現状での不完全さを受け容れた上での)対話や、それを推し進めるための方法の徹底、 アルゴリズムを単純化して誰にでもできるようにすることでもなく、アルゴリズムをコンピュータが選び、あるいは作成できるように するような方向こそ、結果としての音楽を豊かにし、そして音楽と人間との関係自体を豊かにするのではないかと思えてならない。
だが、こうした疑問は部分的なものに過ぎないし、そもそもこうした反応を自分の中に生じさせた音楽はこれまでになかった。 三輪の姿勢の特異さ、ユニークな試みは常に刺激的だし、今後も目を離すことはできそうにない。 ここに記した感想も、現時点での自分の考えに過ぎない。見落としている点もあるだろうし、今後考えは変わって行くかもしれない。 いずれにせよ、今後もこうした架空の問いかけをし、自分の考えを確かめていく対象として、三輪眞弘の音楽は 自分にとって特別な位置を占めているのである。
(2006.3.29初稿、4.30改稿, 5.10加筆修正, 2008.9.17修正)
[追記]その後、著書「コンピュータエイジの音楽理論」を入手し、読む機会を得たが、上記の内容については変更の必要を感じない。 寧ろ、共感を新たにする部分が大きかった。例えばクセナキスについての言及や、コンピュータ音楽のカテゴライズについてなど、 自分が感じていたことがそんなに見当外れでもなさそうなことが確認でき、正直なところ、ほっとした部分もある。 この著作が書かれてから既に10年以上が経過しているが、その10年の距離にしても、他の作曲家の生きた時空との 距離に比べれば遥かに身近なものに感じられる。私は芸術とは縁のないことを職業としてはいるが、10年前も今も、隣とは いかなくても、すぐ近くにいることは確かなことであるし、「今まで門外漢には口をはさむ余地などまったくなかった近隣分野の達人が、 自分とひじょうに似た問題を抱えている状況に出くわすことが起きてきたのである」(同書p.118)という言葉を、己のこととして 実感することができる。今のところは(そして恐らく今後も)専ら、刺激を受け取るだけの一方通行に過ぎないのではあるけれど。(2007.2.18)
(2024.6.23 noteで公開。)
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