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山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

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これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。
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2024年7月の記事一覧

語録:アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.137, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.129) この言葉はマーラーの評伝の類ではおなじみの、あまりに有名なものだが、実はその典拠はというとアルマの「回想と手紙」が唯一のものらしい。そしてこの言葉が出現する 「回想」における文脈というのは、あの1907年の出来事を語る章の冒頭で、或る種の寄り道というか息抜きとして紹介されるマーラーの若き日の出来事を語る中で

証言:ヴァルターの「マーラー」より:その「作品」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.85, 邦訳pp.149-150):その「作品」についての回想 ここでのヴァルターの言葉の説得力もまた、その作品は勿論のこと、マーラーその人を非常に良く知っていて、その人と音楽との関係をまさに 目の当りにした経験に根差しているのであろう。音楽一般がどうかとか、当時のヨーロッパの音楽の傾向がどうだとかいうのは、登ったら外す梯子の はずであって、最後はマーラーの個別の場合が問題なのだ。そして

証言:ヴァルターの「マーラー」より:その「人」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.113, 邦訳p.207):その「人」についての回想 ヴァルターはここで晩年のマーラーが彼宛に送った書簡を思い浮かべながら、マーラーの「態度」について非常に説得力のある説明をしていると私には思われる。 この文章には、長年に亙ってマーラーと親しく接した人ならではの、決して一時の印象に引きずられない視線が感じられる。(もとの書簡も「語録」の方で 紹介しているので興味のある方は参照されたい。)

語録:ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書383番, p.419。1979年版のマルトナーによる英語版では407番, p.346。1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では429番, pp.390-1) この一節は、最後のミッキェヴィチの「葬礼」のリーピナーによる独訳の引用により有名かもしれない。 言うまでも無くリーピナーはマーラー

音の身ぶりの変形とモンタージュ:マーラーから見たシューマンについて

マーラーがシューマンの交響曲のオーケストレーションに手を入れたことは今日では良く知られていて、その楽譜をリアライズした演奏の CDすら存在するのもまた、マーラーに親しんでいる人であれば周知のことであろう。マーラーの研究が進んだ今日では、マーラーの 発想を知るためのよすがとして、自作よりも寧ろ他人の作品の編曲を調べるといったアプローチが取られることもしばしばで、 シューマンの管弦楽法の手直しは、恰好の資料を提供していることになるのだろう。いわばそれはマーラーをより良く知るための

アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について(2)英訳の場合

アドルノのマーラー論での第4交響曲への言及に関して、新しい邦訳と私見との相違を別の記事でまとめたが、 その後、英訳(Mahler - A Musical Physiognomy, translated by Edmund Jephcott, 1992, The University of Chicago Press)を入手して確認したところ、英訳版ではアドルノの注の 付け方を練習番号との相対位置に基本的に改める方針をとっていることがわかった。 (ただし厳密には参照できたのは1

語録:アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.226, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.228) 最後のマーラー自身が言ったものとして記録された言葉は有名だろう。ご存知の方も多いと思われるが、墓石についての彼の希望は入れられ、 分離派のヨーゼフ・ホフマンのデザインによる墓石には、彼の名前のみが刻まれている。行列と弔辞の方はどうだったろうか? マーラーがここで拒絶したのは、 ウィーンでは伝統のある、大勢の市民が行列

語録:1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4。なお1996年版では、1924年版書簡集原書153番は180番を始めとする幾

アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について

アドルノのマーラー論は全編にわたって具体的な楽曲への言及がされているが、 それらは全て注の形をとっている。そしてその指示は、アドルノが参照した研究用スコアの ページとページ相対の小節数によっている場合が多い。この方式の問題点は、 アドルノが参照したものと同一の版でないと指示している場所が確定できないことである。 (練習番号で指示がされている場合もあり、こちらは版に拠らないので問題はない。) 実際には、訳注で述べられている通り、第4交響曲の場合が問題で、現在一般に使用されている

私のマーラー受容:マーラーとの出会い

マーラーを初めて聴いた時のことは比較的はっきり覚えている。何を聴いたかだけではなく、聴いたときの状況や、 視覚的な情景まではっきりと記憶している。 中学生になった最初の夏の夏休みの恐らくは午後、確か、夏休みの宿題であった火災予防か何かのポスターを 作っている最中に、たまたまポータブルのラジカセをつけたら流れてきたFM放送で第1交響曲を聴いたのが最初であった。 その時に放送されたのは、小澤征爾指揮のボストン交響楽団の録音で通常の4楽章形態であった。 当時の私は既にフランクの晩

証言:丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より

丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」(in 「音楽の手帖 マーラー」(青土社, 1980))より  丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知ら

アドルノ「エピレゴメナ」(『幻想曲風に』所収)に寄せて

ようやくにして待望の翻訳の成った『幻想曲風に』には、マーラーに関連した文章として、従来より別の訳で読むことのできた有名なウィーン講演の他にもう一つ、「エピレゴメナ」、つまりウィーン講演の補足として書かれた文章が収められており、これをようやく正確な日本語で読むことができるようになった価値は計り知れないものがある。 勿論、『幻想曲風に』には他にも重要な論文が並んでおり、翻訳の価値の総体は、それら総体を踏まえて測られるべきであるけれど、マーラーという文脈に限って、更に「エピレゴメ

証言:マイケル・ケネディの「マーラー」の結尾近くの文章より

マイケル・ケネディの「マーラー」の結尾近くの文章より:(原書2000年版, p.179; 中河原理訳、芸術現代社、1978年、pp.235~6) 私事になるが、私が最初に接したマーラーの評伝はこのケネディのものだった。それは単なる偶然によるものだったと思うが、参考書籍のところにも書いたように、 この本はその慎ましい体裁にも関わらず、とても優れた視点と、数多くの興味深い情報を備えた書籍であり、最初にこの本に接することができたことをとても 幸運なことだったと思っている。 引用

語録:「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集める」:妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉

妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.304, 白水社版邦訳pp.282-3) この一節、人によっては(もしかしたらほとんどの人は)気に留めずに読み飛ばしてしまうかも知れない手紙の書き出しの部分が、私にとっては最初にこの書簡を読んだ30年以上も前から 不思議と心を捉えて離さないものなのだ。理由ははっきりしている。「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め(うまく集められるようになるまで何日かかるだ