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山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

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これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。
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#シベリウス

バルビローリのシベリウス:第4交響曲 ハレ管弦楽団(1969)

この曲はシベリウスの交響曲の中では捉えがたい、それゆえ様々な解釈を許す曲だと思える。 この曲のバルビローリの演奏を聴いたのは、カラヤンやベルクルンドより後で、最初はやや戸惑いを 覚えたのを憶えている。 この曲は、非常に主観的な内面の音楽としても演奏できるし (ベルクルンド)、その逆も可能だ。例えばケーゲルの演奏では、風景が主観の結んだ像に過ぎないこと、 その向こうには虚無しかないことを思い知らされるのだが、バルビローリの演奏はそのどちらでもない。 もっともそれは当然といえば当

バルビローリのシベリウス:第5交響曲 ハレ管弦楽団(1966)

第1楽章の前半部分の空気が忘れがたい。バルビローリの演奏は少しだけ湿度を感じる。 何回も、さまざまなレベルでの光と影の交替があるが、この演奏では、影の輪郭は少しぼやけている。 (例えばパーヴォ・ヤルヴィの陰影に富んだ演奏に比べた場合。) けれども、その感覚の生々しさではバルビローリの演奏がもっとも強烈のように思える。 空気の「厚み」のようなものが変化し、視界が少し歪むような感覚や、光のちらつき加減などを 感じるのはバルビローリの演奏が強烈だと思う。普通に風景の中に立ってい

バルビローリのシベリウス:第7交響曲 ハレ管弦楽団(1966)

シベリウスの音楽の極限。シベリウスの音楽は語法が伝統的であるのに比べて、 音に対する態度は、間違いなくいわゆるクラシック音楽の極北にあると感じられる。 例えばウェーベルンにも似たところがあるが、シベリウスはウェーベルンが引き返した (のでなければ、そこを極限と見なして立ち止まった)地点を(恐らく気づかずに)超えて 先に進み、そして全く別の理由で沈黙してしまったようだ。それはある意味では、周縁的な 音楽の特権といっても良いのかもしれない。(例えば、武満の音楽にそれを感じる時があ

バルビローリのシベリウス:第6交響曲 ハレ管弦楽団(1970)

他の演奏と比較した時、第1楽章のゆっくりとしたテンポが印象的。 ゆっくりした流れの向こう側から立ち上ってくるものを感じる。 個人的に最もシベリウスらしいと思っている曲。音を秩序づける主観をほとんど感じさせない、 無人の音楽。シベリウスの沈黙は、音楽を構築してしまうこと、 音の「自然」に対する主観の暴力への抵抗ではなかったか? そんな自然がどこにあるかという問いは、例えばこの曲を聴くと空しく思える。 音楽が湧き出てくる少し手前に間違いなく存在しているように感じられるから。

バルビローリのシベリウス演奏について

バルビローリのシベリウスについて言われていること。北欧的な演奏スタイルではないこと。 (誰も言わないが、さりとてドイツ的なスタイルでもない。更にイギリス的な演奏だという 言い方を聴いたこともない。)私はいわゆる同曲異盤聴き比べとかにはあまり関心がなく、 だからシベリウスはバルビローリでいいやと思っていて、他の演奏といっても手元にあるのは、 ザンデルリンクくらいだ。従って民族性と個人的な個性のどちらが勝っているのかもわからない。 どういうのが北欧的なのかもよくわからない。 多