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山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

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これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。
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#ブラームス

バルビローリのブラームス:第1交響曲・ウィーンフィル(1967)

 もしバルビローリの解釈が違和感を齎す可能性があるとすれば、それはこの ベートーヴェンの第10交響曲とも呼ばれる第1交響曲だろう。しかし実際には、 この曲の、構築的に書かれた筈の第1楽章ですら既に「移ろい」の印象が濃厚な 演奏だ。己に鞭打つように進もうとする意志とは裏腹に、音楽はそこここで 立ち止まる。美しいのは寧ろそうした「息つぎの」瞬間の豊かさだ。  それゆえ、第2楽章も第3楽章も古典派的な交響曲の中間楽章の機能を忘れて、 その瞬間瞬間の経過の実質の豊かさの味わいつくす

バルビローリのブラームス:第4交響曲・ウィーンフィル(1967)

 この音楽は、作曲の意図においても「回想」というベクトルが顕わな、 非常に風変わりな作品だ。これくらい、実質においても様式的な志向においても はっきりと過去を向いた作品は、他に思い出すことは難しい。 ここでは実質と様式は一見、拮抗することなく足並みを揃えて追憶に 耽っているかのようだ。そしてバルビローリの演奏もまた、情緒纏綿とそうした 志向を強調しているかに思えもするだろう。  しかし、バルビローリの演奏では「回想」の持つ意味合いはかなり 異なってくる。音楽はここでは、作曲

バルビローリのブラームス:第3交響曲・ウィーンフィル(1967)

 もし、バルビローリのブラームスの中で最もその特質が良く出たものを挙げると なれば、第3交響曲の演奏を挙げることについて多くの人が賛成するのではと思う。 バルビローリの演奏を必ずしも好まない人でも、この演奏の持つ他の追随を許さない 特徴には一目措かざるを得ないのではなかろうか。そしてそれには第3交響曲自体の 特性が大きく与っているように思われる。  この曲はブラームスの意識的に身につけた身振りよりも、より基層の 資質があらわで、それゆえ「いつものやり方で」無難に仕上げようと

バルビローリのブラームス:第2交響曲・ウィーンフィル(1967)

私がこの演奏を聴いたのは、他の曲に比べて遥かに早く、シベリウスを聴いた後、 あまり時期をおかずしてLPを入手してじっくり聴いたものだった。  この演奏の特徴は、第1楽章の冒頭を聴いただけですぐに感じ取れることだと 思うが、空気の感じが少しひんやりとして、しかも適度な湿度を持っていることだ。 しかもその空気の感覚は鮮烈で印象派的といって良いほどの強烈さをもっている。 そしてなにより通常、人がブラームスに見出すとは思わない透明感が感じられる のが新鮮である。しかもその音色は決し

バルビローリのブラームス演奏について

 バルビローリのブラームスに対する私の最初の印象は、 第2交響曲のウィーン・フィルとの演奏に基づくものだ。私はこれはLPレコードで入手して、繰り返し聴いたものだ。一般には粘るような 歌い方で、情緒たっぷりの演奏というような評が普通のようだが、 私の印象はかなり異なって、涼しげで透明感さえ感じさせる空気の爽やかさが 特徴と感じられた。それはその後CDで聴くことになった他の曲でも同様である。 (なおブラームスの交響曲一般についてということであれば、上記のバルビローリとウィーン・

ヨハネス・ブラームス

 ブラームスについて、今更語るべきことが残されているとは思えない。時代を超えた大作曲家として、恰も時代と地理的な隔たりがないかの如くの伝記的解説から始まって、パウル・ベッカーによる中部ドイツ的な交響曲作家のトレンドに位置づける試み、更にはその音楽を19世紀のドイツ・オーストリアの 社会的・文化的文脈に位置づける試みは、小市民的な親密さを湛えた音楽、ロマン派時代に台頭した知識人たち、ブラームスがともに生きた人たちのための音楽としての特質を浮かび上がらせる。形式に対する保守的な姿