ジャズは水のように

My Life is like a Jazz.

私がプロフィール等でよく使う言葉である。

 ジャズが好きなのは勿論だが、どこか伴侶のような存在である。
 幼少期、好きなアニメのオープニングとエンディングをそれは気持ちよく歌っていた。大声が駄目なら、ありったの感情を息に吹き込んで歌った。
特に毎週日曜日の9時だったか、「題名のない音楽会」という番組は必ず観た。ポップソングを歌う歌手の声が綺麗ではなかったり大人の女性が子供のような声で歌うことに嫌悪感を抱いていたからだ。話がずれるが、幼少期の私ははやく大人の女性になること、正しく生きることだった。よって、オーケストラによるクラシックやオペラ歌手は、好きな物の最高級品だったのである。
 しかし、ある日、ジャズの特集が映されたとき、私にとっての最高はジャズになった。普段、正しく真っ直ぐな音やハーモニーを奏でる優等生的なオーケストラが、まるで酔っぱらいのような曲がりくねった音を出し、音で遊んでいるようなのだ。それも速くなったりゆったり吹いたり、思うがまま。奏者から「楽しい!楽しい!」という声が聞こえてくるようだった。
 音楽が何故好きなのだろう。正しいからではない、楽しいからだ。真面目一辺倒の私に、ジャズという思うままに振る舞う相棒が出来た瞬間である。  
 それからジャズの特集は毎回VHS に録画した。
 やがて、小学生のとき、母親が所有する山ほどのCDコレクションから、ビリー・ホリディのベストアルバムを貰い、怪しげな発音の英語で歌いに歌った。
 将来の夢を聞かれたとき、金銭的・成功的困難を視野に入れなければ、ジャズシンガーになりたかった。だが、音大に進んで歌手になれることの無駄さを母親に一喝され、やはり一般社会人として成功することを目指した。
 洋楽が好きだった、というよりは日本語からの逃避と音とリズムに魅せられてのことだったと思う。
勿論、ホイットニーやマライアを聴き込んで、その世界に浸ったものである。
 流行りの洋楽も一通り楽しんだ。
 明るく新しい音楽に対して、ジャズは積極的に聴くものではなかった。
 しかし、人生で行き詰まったとき、現代の曲は心を上滑りするようで、耳障りになってきた。より真実味がある曲に傾倒し、アデル、エイミー、カリーセを経て、1950年代以降のジャズを聴くに至り、より孤独や郷愁、恋愛以外の愛情について歌うブルースやカントリー、特にジョニー・キャッシュやエタ・ジェイムズを好んだが、そうなるといつも映画のエンディングを聴いているようで、人生のエンディングを夢想するようになった。
 そうして、喜怒哀楽すべてを持ちながらどこか幻想的、または現実逃避的なジャズに戻った。どんな気分でも、どこに居ても、ジャズがかかれば心身が潤っていく。
 イントロを聴くだけで、心が綻んで涙が出ることもある。
 今は、歌うより聴くことが多いが、私にとってジャズはいつまでも水のように必要な存在である。

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