見出し画像

数学に日本的な民族性を入れる

台風が日本を渡って行くさまを何となく感じながら、基本は家に籠って思索を広げて居た。実に悠々と楽しい時間だ。最近のぼくには心境の変化もあった事だし、ここらで回想してみることにしよう。

ぼくは数学に因縁と言えるような不思議な付き合いがある。皆んなは受験が絡んだ数学しか大抵は知らないと思うが、ぼくは逆に、そんなものはほとんど知らない。大学へ進学するときに初めて受験としての数学に触れたが「こんな数学もあるんだ」と思った。しかも師匠が受験対策をほとんど全てやってくれたから、ぼくは提示される問題をひたすらに解いていただげで、さっぱり訳は分かっていない。つまり、皆んなが数学と呼んでいるものにぼくは馴染みがない。受験が済めば、もう忘れている。だから、受験指導なんてものは明らかに向いてないと思う。

ただ、ぼくは己の数学への世界観が説明できるかと言えば、かなり難しい。ぼく自身、探求する必要がある。そして、共感を呼び込みたいとも思っている。手段としては、トークライブ等が思い付く。ぼくなりに『数学の演奏会』を開きたい。ぼくたちは数学の演奏者(Player)だ。たとえ数学の理論や知識に詳しくなくとも、数学を“聴く”ことで楽しめる可能性は充分にある。聞く数学から“聴く”数学へ。そういう未知なる可能性は探求する価値が高く認められるであろう。

なにしろ、数学は今まさに変革を迫られている。そういう重大な事態が目の前に在りながらも、ほとんど認識が進んでいないのが難しいところだ。数学の内に居る人も、外に居る人も気が付いて居ない。その中間に居るぼくのような人達が少数ながら現れているだけで、しかし現状のまま行けば、数学は潰されてしまう。ここで、数学が社会状勢や時代背景を多分に反映している事実を思い起こせば、そもそも世界が今まさに変革を迫られている実状と重ねて了解できると思う。

意味が取りづらいと思うので、少し説明を補足しよう。

これまでの数学、特に「西欧近代の数学」は個人プレーが連なって形成された山脈のようなものである。例えば、オイラーやラグランジュ、ガウス、アーベル等が居て、各々の意志を継いで互々が個人プレーで進めて行く。そういった歴史を追うのは実に面白い。だが、この流れが続いたのは実質的に19世紀まで。今となっては個人プレーの連なりは姿を消し、かつての山脈は幻想のように遠のいてしまった。このように『個人の不在』を招いた数学は宙に浮いたようなもので、次の一歩が踏み出せない。言わば、実際に歩く人が居なくなってただ「歩く人」という観念のみになってしまったようなもの。バーチャル化とでも言えようか。とても虚しい状況である。

20世紀にただ独りこの趨勢に反逆した人が居た。その名は岡潔と言う。岡潔は上記の現状を冬景色になぞらえて語り、数学に再び春が来ることを夢に見た。変革の鍵は岡潔に在り。即ち、数学に日本的な民族性(集団性とは違う)を入れると如何がだろうか、と云う提案をしたい。

個人プレーから社会プレーへ。縦の繋がりから横の繋がりへ。

岡潔は宙に浮いた数学を再び地に根を張るように引き戻そうと試みた。今やかつて流れていた個人プレーの波は途絶えたのだから、元に帰るのは無理である。しかし、そもそも吾々日本人には個人プレーは必要ない。民族性(団結力)を活かして数学に新たな道を拓けばよい。それが社会プレーの『新・数学』に期待される姿である。

これは数学の内に居ても外に居ても分からない事である。専門家と称して壁を作ってしまった。つまり、専門家とは分野の中に於ける権力者とも言える。内に居ると、業界の構造に呑まれて冷静に状況を分析できない。かと言って、外に居ると壁があって何がなんだか分からない。

だから、中立的に数学と付き合える人が必要であり、それは民族性による社会プレーで為しうるものであるが故に、数学の「演奏者(Player)」を中心に草の根で活動して行くしかあるまい。

ぼくはぼくなりに『数学の演奏会』を開きたい。

聞く数学から“聴く”数学へ。今、数学の変革が来たる時。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?