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数学の表と裏

ぼくが数学のことを考えるとき、いつも念頭に浮かぶのが、20世紀の数学者・ポアンカレの「数学とは異なるものを同じと見做す技術である」という言葉である。今日、位相幾何学(Topology)と呼ばれる分野を確立した人らしい言葉と取れる。岡潔は「ポアンカレに至って初めて数学は自分とは何か(=数学とは何か)の一応の自覚を持った」と言っているように、人類は長年に渡って数学という営みを続けてきたが、意外な事に真正面から「数学とは何か」と反省することは、ほとんど為されてこなかったと言っていいのではないかと思う。岡潔は数学を「情緒を表現するもの」と語ったが、これまた難しい言葉である。ぼくが思うに、ポアンカレの言葉は数学にとって過去から現在に伸びているものであり、これまでの数学の集大成をまとめているように感じる。そして、岡潔の言葉は(結節した”これまで”の数学に対して)現在から未来に伸びているものとして、”これから”の数学を暗示ないし予見しているものであると感じる。
数学の歴史(特に微分積分学の歴史)を調べてみると、一般的に思われているよりも遥かに、数学に『神秘的』としか言いようがない要素が関わっていることがわかる(クザーヌスの思想が関与している)。つまり、数学というものは長い年月に渡って、論理的な要素と神秘的な要素が拮抗して絶妙なバランスを伴って発展してきたものであることが了解される。このことは、学校数学や現代数学をふつうに学んでいるとなかなか気がつかないポイントである。数学は確かに抽象的な文化である。論理的な要素がある以上、そう言われても致し方ない。しかし、数学を抽象的と「感じるかどうか」は別問題である。もし抽象的と感じない(=何らかの実感を伴う)ならば、その感性を通して数学をしている人間には、単なる抽象的な構造物として数学をしている人間とは別の認知が生じているはずである。そのような感性を発揮する者とそうでない者を分ける境界線が、先ほど言った『神秘的』な要素に他ならないとぼくは考えている。極限の概念、虚数の概念、などには神秘的な要素が深く関わっている代表例なのではないかと思う。
そもそも、何かと何かを”=(等号)”で結ぶ、というのは特殊な認知形式なのではないか?と疑ってみる必要がある。ポアンカレが考えた位相幾何学なんかでは、図形に対して合同や相似よりも遥かに柔軟な等号性が用いられる(連続変形で互いに移り合う図形は同じと見做し、同相であると言う)。つまり、どのような認知形式を取るかによって、いくらでも数学が構成できる可能性があるわけである。もっと言えば、数学は行為者(数学を「する」者)の《意識》によって変化しうるものである可能性があり、その《意識》がすなわち岡潔の言うところの《情緒》に相当するのではないかとぼくは考えている。ポカンカレは数学の表(意識)について指摘し、岡潔は数学の裏(情緒)について指摘した。意識と言うとモナドを連想するが、ぼくは情緒と言うとトポスを連想する。つまり、情緒は意識と意識を結ぶ”媒介(=間)”のようなものであると理解してはどうか、と提案してみたい。

疑問:意識が関数としたら、情緒は不定域イデアル?。

【 図式 】

表ー論理的ー固体的ー認知形式(意識状態)を一つ選び固定した際に構成される抽象的な構造

裏ー神秘的ー液体的ー行為者の情緒(日本人なら日本的情緒)が流動的に生きている表現の素

ここで「行為者の」情緒と書いたが、意識の場合は個人を指すようなものであるのに対して、情緒の場合、例えば”行為者”とは『日本民族』を意味する。個人よりもひと回り大きい概念であり、ここが情緒を理解する上で難しいポイントなのではないかと思う。よく日本語は主語がないと言われるが、これは主語がないのではなく、個人よりも民族を主語とするような日本人の特性ゆえなのではないかと思う。つまり、主語が射程とする範囲が西洋人よりも日本人の感性が広がっていることを意味しており、それが意識と情緒の差異を明らかにしているように思う。

数学をやる以上、表の世界に出してやる必要があるわけだが、その背景には裏の世界があることを決して忘れてはいけない。数学では「どういう認知形式を選ぶか?」が肝になっているが、その選び方は民族によって違っていいはずである。現在のようにグローバルで均一的な数学は、一見して普遍性があるように見えて、実のところたった一つの可能性を表現したものに過ぎない。それが数学であると規定することは近視眼的な立場であると言わざるをえず、他に構成されるべき数学の可能性を知らず識らずのうちに排除していることになる。ぼくは数学のグローバル化に批判的である。日本人は日本民族の数学をしようではないか。

しかし、西洋人には意識(表の世界)しか見えて居ないのだから、情緒(裏の世界)があること、数学の構成には沢山の可能性があること、を知らせることができるのは日本人である。数学が「個人の檻」から脱出し、より民族的な文化として成立できるかどうか、が岡潔が”これから”の数学としてぼくたちに投げかけた大きな宿題であるように感じる。

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