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忘れた縁側

内でもなければ外でもない。そんな空間の曖昧さに風情ある縁側。
どうして日本の家にはこんな場所ができたんだろう?

ちょっと考えてみる。

獰猛な野生動物に襲われることがなかったから?
ーいやいや今より野生動物は多く強かっただろうに

空間を外に広くしたかった?
ー内と外の境を無くして、広く見せたかったのはありかも

人の集まる場を作りたかった?
ー日中暗い室内より縁側に腰掛けて皆んなでおしゃべりいいかも

風通しをよくしたい?
ーこれも近いかも。吉田兼好の徒然草でも「家の作り様は、夏を旨とすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き頃、悪き住居は、堪へ難き事なり。」


鎌倉時代、断熱なんてないんだから諦めて炉を囲むしかなかったんだろうな。でも夏の暑さはどうしようもない。いかに湿気や熱気を抜かすか。でも部屋から直だと雨も当たるから。廊下にしてしまえ。合理的な作り方。

日本の気候、自然に合わせた家づくり。昔の人はそれを知っていたし、せざるを得なかった。人は自然の中でどうしようもなく、ただ生かされている。だから人は繋がっていないといけなかった。そんな人の集る家は外から身を守る場所ではなく、自然の中に少し安心できるコンフォタブルゾーンを作るだけだったんだと思う。自然と切り離すのではなく、自然の中に生きていることを意識していた。人と人、人と自然を繋げるのが縁側の役目だったんだろう。

家の「風水」なんて迷信だとか、気休めと言われてしまうけど、よくよく調べてみると風通しは良いか、湿気はこもらないか、土中に水脈は通っていないかなど、どんな環境の場所に家を建てるべきかという長年の経験の失敗と失敗の統計学みたいなものだと分かる。
暮らしに縁側があるような時代だと自然と密接で、誰もが自然を読む力に長けていたのだと思う。今ではそんな本質を忘れて自然を制圧したつもり、一歩ドアの外に出ればいつだって危険と隣り合わせなのに。

誰もが自然を読むことをしなくなり、忘れてしまったら。人間はこの世界にいられなくなってしまうのではないだろうか。
自分の中に縁側を作りたい。それは人にも自然にも広がり繋がれるところ。

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