見出し画像

胃ろうをつくるか、そのままか 〜苦しまずに旅立つための覚え書


何事にも、原則のようなものを見極めていくことは大事だと思う。その発見には知的な興奮もあるし、それがわかると身の処し方もシンプルになる。
だが、今ではそこに例外が共存できるような空間を空けておくことも、また必要だとも思ってもいる。

そんなことに気づかせてくれたのは妻の母、5年前に旅立たれたきよみさんである。


この仕事をしていく過程では、延命についてもいろいろな話を聞くことになる。

特に、死が近くなると人の代謝は低下する。代謝が落ちるからは人は亡くなる、が本質だとも思うが。そんな時、人の身体はよく出来たもので、脳内麻薬が出て穏やかに彼方の世に旅立たせる準備をするらしい。

なので、自ら食べられなくなった方は、自ら安らかな旅立ちの準備をしているとも言える。そこに点滴や胃瘻で水分や栄養分を与えることは、亡くなられる方に対して苦しみすら与えてしまう。つまり、そんな状況の方に栄養を外部から取り入れることは、最後のときを逆に苦しめてしまうことに繋がりかねない。
なので、胃袋へのバイパスルートたる胃ろう(PEG)の造設についても、あまり肯定的には見られなくなっていたのだ。


そして、きよみさんが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患したことが確定したとき、きよみさんは将来の気管切開だけでなく、胃ろう造設を断った。

ALSには大きく分けて、身体の下の方から進行するタイプと、上の方から進むタイプがある。義母はまず舌の動きが悪くなって、その原因がわからずに、確定診断となるまで苦労していた。なので、気管切開を望まない意思を尊重すると、まず嚥下が困難になる。

自分も、その頃は自力で食べられなくなったら終わり、が自然なのだろう、そう考えていたので、その考え方を尊重しようかと思っていた。そのころ、きよみさんの体重減少のペースは徐々に加速していたし。


だが、今後のことを考えるにあたり、以前利用者さんとしてご縁ができた方が地域のALS患者会を主催されていることを知り、まずはそこでお話を聞いてからでも遅くないな、と思い直した。

で、すでに胃ろう造設と気管切開をされている皆様のお話を伺い、考えが変わった。


まず、胃ろうで摂取できるのは水分や栄養剤だけでない、これが重要だった。胃ろうは薬の投与ルートでもあるのだ。
ALSの場合、呼吸困難になると苦しむことになるため、その場合は鎮静作用のあるモルヒネを投与する。だが、きよみさんは自分の魂を込めてつくりあげた自宅で最後まで過ごす選択肢を望んでいた。
そして、点滴などの医療行為は我々には不可能だが、たんの吸引と胃ろうからの経管栄養は訪問看護師だけでなく、家族や、一定の研修を受けた介護職員なら対応できる。なので、自宅で苦しまずに旅立つという選択肢は、胃ろうがないと難しいということがわかったのだ。

さらに、胃ろうをつくると口から食べることが難しくなるのでは、という疑問についても、患者会の皆さんに伺った。ところが、必要な栄養はPEG(胃ろう)から入れておいて、美味しいものを少しだけ口から摂っているわよ、と笑って仰るのだ。文字盤を通して。
味わう楽しみは胃ろうをつくっても失われない、ということも、胃ろうをつくる判断の大切なポイントだと思った。


そして、呼吸が困難になってからでは胃ろうの造設が難しくなる、ということもそこで伺った。判断のタイミングにあまり猶予はなさそうだった。

そこで、きよみさんには最後苦しみたくない、という希望を叶えるために、どうしても胃ろうは必要なのだと説得した。手術は全身麻酔で長時間かからないものなので、負担も少ないと聞いていたので、それをそのまま伝え、手術を行うこととなった。


ところが。


最初の手術の際、胃の中に大量に出血したそうだ。どうも、研修医さんにその手術を任せたとのことで、不慣れな手技で血管を傷つけたのだろう。なので、退院までの時間が無駄にかかってしまっただけでなく、入院期間に比例して体力も削られて戻ることになった。

その時の手術がうまく行っていたとしても、大きく延命効果が上がったかどうかはわからないのだが、医療行為において、難しくない手術と言われるものは、その難しくなさがオン・ジョブ・トレーニング向きであるがゆえ、そういったリスクもあるのだということを学んだ。
人の命がかかっているのでそれで練習するな、と言いたくなるが、すべての医者はそれで育っているとも言えるのもわかる。なので、せめて指導医は手を抜かずにやってほしい、という気持ちでいっぱいになった。

お医者様には「それ、自分の親に同じことできます?」と常に問うていきたい。ドクターの皆様、ヒポクラテスの誓いやジュネーブ宣言を持ち出すまでもなく、その点だけはどうぞ忘れずにお願いしたく。


そういった事件もあり、きよみさんの胃ろう造設は万々歳であった、とは言えない。本人はずっと、胃ろうなどやらなければよかった言っていたそうだし。けれども、安楽な最後を迎えるという、その目的を果たすためにはやはり必須だったし、最後の週まで毎朝ブラックのコーヒーをひと口、味わうことができたのも、栄養状態を保てた胃ろうのお陰だったと思う。

人が命をまっとうする、ということについて、苦しみは少ないほうがいい。なので、最後を迎えるやり方は、ご本人の意思の尊重、自然の摂理、そして苦しみの緩和のバランスを常に考え、簡単に教条主義に陥らないようにすることを、忘れないようにしたいと思っている。正解が簡単に見つかるほど、世の中はイージーではないということなのかな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?