某日のブログから 2016年 それぞれが異なる現実を見ている

某日のブログから

あるところで、一般公開していないブログを書いていました。週一くらいの更新です。一昨年度のブログの中から、ある日の記事を再掲していきます。

それぞれが異なる現実を見ている

今週は、月曜日と火曜日は大分県でディベート研修、水曜日は東京都港区でプレゼンテーション研修、木曜日と金曜日は伊勢崎市で管理職研修、土曜日は東京の事務所で勉強会です。この時期は雪が心配です。幸い今週は、雪の影響はなさそうです。

大分県でのディベート研修は、2日間で行われます。1日目はディベートの基本とルールを学び、お昼から1試合行い、ディベートのイメージをつかみます。2日目は試合準備を行い、ディベートの試合を行います。肯定側、否定側、審判全てを体験します。

私は学生時代に、英語でディベートを始めました。35年前です。ディベートを教え始めて、25年経ちました。

現在ディベートは学校教育でも取り入れられており、小学校、中学校、高校、大学まで、国語や社会などをはじめとして、さまざまな授業で行われています。

学校教育にディベートが入り始めたのが、90年代に入ってからです。1996年に全国中学・高校ディベート選手権(通称ディベート甲子園)が始まりました。ディベートを教育界に普及し、ディベート甲子園を実施するために全国教室ディベート連盟を立ち上げたのが、1995年のことでした。

1995年には、大きな事件がありました。阪神淡路大震災、そして、地下鉄サリン事件です。当時オウム真理教を代表してテレビに出演し、ジャーナリスト、評論家とやり合っていた、上祐史浩氏がいました。彼は学生時代にディベートを行っていました。まさに彼の反論の仕方やパフォーマンスまでも含め、そのほとんどが競技ディベートで行われていた方法です。

上祐氏の弁舌に、当時のジャーナリストは全くかないませんでした。当然です。ディベートを知っている者に、ディベートを知らない者がかかっていっても、敵うはずがありません。悔し紛れに「詭弁だ」と切り捨て、終いには「ああ言えば上祐」と捨て台詞を吐くだけでした。

この事件でディベートが、とんでもない代物だと言われ始めたのも事実です。しかし学校で普及していくに従い、そのような負の側面は払しょくされてきました。良きにしろ悪しきにしろ、ディベートが世間に認知された年でもあります。

しかし今だディベートは、正しくとらえられていないように思います。ディベートは、激しく討論すること、相手を遣り込めることというように捉えている方が多いように思います。

しかしディベートは、決してそのようなものではありません。私たちが行う、特に研修で行うディベートは、次のようなものです。

ディベートとは、「特定のトピックに対し、肯定・否定の二組に分かれて行う討論」のことです。私たちが一般に言っている討論とは少し違います。ここでいうディベートとは、以下の4つの条件を備えたものをいいます。

① ひとつの論題をめぐって行われる
ディベートは、ひとつの論題のもとで行われます。論題は、通常の討論でいうようなテーマとは違います。討論のテーマでは、「死刑の是非」とか、「これからどうなる日本経済」といったような漠然としたものが多いのですが、ディベートではもっとテーマを絞り込みます。死刑の是非でしたら、「日本は死刑制度を廃止すべきである」となります。このように、「○○は××すべきである」というディベートのテーマをあらわしたものを論題といいます。

② 相対する二組の間で行われる(肯定側・否定側)
討論には複数の立場がありますが、ディベートでは2つの立場しかありません。肯定側と否定側です。肯定側とは論題を肯定する側です。「日本はサマータイム制を導入すべきである」という論題でしたら、肯定側はサマータイム導入側になります。否定側は論題を否定する側です。サマータイムを導入すべきではないという立場になります。つまり現状のままで良いという立場です。

③ 一定のルールに従って行われる
討論には厳密なルールはありませんが、ディベートにはルールがあります。試合の形式、時間、やってはいけないこと、やらなければならないことが決まっています。

④ 審判によって判定(勝敗)が下される
ディベートでは判定が下されます。ディベートの試合が終わったあと、どちらが勝ったかを決めます。引き分けはありません。判定は通常審判が行います。

つまりディベートとは、相手を遣り込めるゲームではなく、審判を説得するゲームなのです。相手は絶対に立場を変えませんので、遣り込めることはできません。

ディベート研修は、試合を通して、議論する方法を学びます。肯定側否定側両方から議論することにより、物事の両面を見ることができるようになります。

ディベートを学ぶと、相手の立場に立って物を考えることができるようになります。なぜ自分と異なった意見を持っているのかと、考えるようにもなります。相手と私の意見が異なるのは、考え方の相違もありますが、そもそも違うものを見ているのかもしれませんし、とらえ方が違うのかもしれません。
ドラッカーが言う、異なる現実を見ているとは、このことを言うのでしょう。

組織内に反対意見がある場合、誰が正しいかと考えてはならない。何が正しいかさえ考えてはならない。どの意見も正しい。それぞれが違う質問に対して答えているととらえるべきなのである。それぞれが、異なる現実を見ているのである。
Peter F. Drucker 『非営利組織の経営』

どの意見も正しい。違う質問に対して答えている、異なる現実を見ている、このように考えることで、自分の意見や立場に固執することなく、正しい議論ができるようになります。

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