VOL.13寄稿者&作品紹介10 荒木優太さん
「ウィッチンケア」には第7号以来の寄稿となった荒木優太さん。第7号...2016年4月1日発行でしたから、あのころの荒木さんはまだ20代だったのか。この7年間の荒木さんの活躍はめざましく、なんか、ご著書やSNSの書き込みを拝読すると、もう少し年がいってる感もあったりしますが(個人の感想です)、現在36歳。早熟の俊英だなぁ、同年代で他には誰が? と調べてみたら『人新世の「資本論」』の斎藤幸平さんとほぼ一緒でありました。そんな荒木さんの第13号掲載作は「不届きものの後始末」。初読では、とくに序盤〜中盤あたりまで「これって、もしかして私小説?」とも思える語り口のテキストでして、それが後半、さらに終盤に近づくと観念的というか哲学的というか、みたいな展開に。もし私(発行人)がもっと博学で頭が良ければ、地球と宇宙について語られているくだりなどもより深く味わえただろうに...それで、つい先日荒木さんとリアルでお目にかかる機会があったので尋ねてみたら、「あれはエッセイです」と。たしかに、エッセイとしても読める。しかし、このジャンルレスな風合いの、荒木さんらしいとも荒木さんらくないとも言えそうな一篇を、たとえばツイッターのフォロワーさんたちならどう読むのだろうか? なんて思ってしまいました。
そうなんです。荒木さんとは4月18日、第13号巻末の《参加者のVOICE》にも掲載されているYouTubeチャンネルで対談しまして、その節はお世話になりました。これまでWitchenkareを「謎の文芸誌」と捉えていた荒木さんに、かなり正直に、誌としての成り立ちやこれまでの道のりなど話したつもりなのですが...しかし、動画は恐ろしい。自分が太ったこと、老いたことをこの目で確認する場でもありました。アンチエイジングに勤しむ気はさらさらないですが、ストレス由来の暴飲暴食は、もう少し控えよう。あっ、そうだ、見た目のことで言えば、20代の荒木さんは坊主頭がトレードマークのようでしたが、久しぶりに会ったらイケメン風長髪が似合っていてびっくり!
前述した「地球と宇宙について語られているくだり」のひとつまえの段落は、個人的にいろいろ考えさせられる内容でした。《仕事というものがどこか本質的に清掃労働に通じ合っているとも直観するのだ》で始まり、《でも、それは作品であって仕事の領分ではないと感じる。少なくとも私の知っている仕事はそういうものではない》で終わる箇所。ここで荒木さんが「仕事」と言っているのは、おもに「おカネをもらうための労働」のことかな。あるいは世間一般の企業活動みたいなものも指しているのか。...もちろん荒木さんも「直観する」「感じる」と書いていて、スパッと割り切れているわけではなさそうだけれども、仕事と対比するものとして選んだ言葉が「作品」というのが、では荒木さんにとっての「作品」とは、みたいなことも考えてしまって...私の場合、仕事と作品は荒木さん以上に切り分けられない、もっとごちゃっとしたもののようにも感じられるのです。
ごみを捨てるにはごみを集めなければならない。ごみをコレクションしなければならない。蝶の標本のように大きさや種類を分けて同じものと違うものとで並び変えなければならない。ここにはなにか根本的な逆説がある。捨てるのに集める。捨てたいから集める。捨てるために混ぜるしくじりがいっそう滑稽なのは、求められた分類作業がそのまま分類自体の破綻に結ばれているからだ。
ものはいかにもごみらしくならなければ捨てられない。真理だ。捨てたい人がいても共同体が待ったをかける。ちゃんとごみの装いをほどこしてから捨てて下さい、と突っ返される。だから、ごみをごみらしく仕立てる仕事がある。ごみの意匠に特化した職業がある。持ち主への未練がましさを捨てられずものの顔つきをしたごみの横つらをひっぱたく。自覚が足りねえ。どうせ最後には匿名の燃え滓になるというのになんでわざわざそんな面倒なことを、といぶかしがる人がいるかもしれない。同意である。SDGsなんて知るか。どうせいつか地球は滅びる。人類も消える。よし。持続可能なんて犬のおもちゃだ。ほーら、とってこーい。
〜ウィッチンケア第13号掲載「不届きものの後始末」より引用〜
荒木優太さん小誌バックナンバー掲載作品:〈人間の屑、テクストの屑〉(第6号)/<宮本百合子「雲母片」小論>(第7号)
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