ぼくが太宰治について語りたくない理由

東京西側放送局の第9回は、太宰治の映像化作品について語り合う、というものだった。実際には、内容の半分以上が太宰自身とその作品に関するものになったのだけれども。

太宰について語るとき、ぼくはいつも妙な緊張を覚える。基本的に、太宰は解釈しえない作家だと思っているからだ。

「解釈」という作業は、何かを何か「として」切り出し、分解しながら理解することである。たとえば、いまぼくはパソコンの画面を見ながらキーボードを打っている。ぼくはパソコンを解釈するのではなく、ある種身体の一部のようにして使っている。ぼくの意識において、ぼくとパソコンは未分化な状態だ。

ここで、目の前のパソコン画面が突然暗転したとしよう。ぼくは驚き、「あぁこれじゃ明日仕事できないじゃん」と絶望する。目の前のパソコンが、途端に他人のような顔をする。客体化されるわけである。ぼくはそこで、パソコンを仕事に使う道具「として」再発見する。この「客体化」と、「として」という位置づけが、解釈の前提である。そこからぼくは、パソコンがどのような構造で成り立っているのか、画面が映らないのはどうしてかを探っていくうちに、GPUを映像処理に必須のもの「として」理解したり、詳しくないのでわからないが、ともあれ多くの「として」がそこから発生していくわけである。

前置きが長くなった。ちなみに、上の内容はハイデガーの『存在と時間』に全部書いてあることだ。ハイデガーはウザいが、面白いので読んでみるといいことがあるかもしれない。

さておき、解釈という作業には、「客体化」が必要である。太宰に対して、これがなかなかできないのだ。多分ぼくに限った話ではない。作家と作品の距離が近いから、知らないうちに自分もそこに飲み込まれてしまうのだ。外側から眺める、ということが難しいのである。

太宰治研究について、ぼくは放送内で「ファンベース」という言い方をした。あたかも「太宰が好きで研究している」という態度を皮肉っているようだが、ぼくが意図していたのはそういうことではなくて、「作品との距離を取って解釈することが、太宰においてはとりわけ難しい」ということを主意とした発言だった。その結果として、卒論・修論においては「作品の解釈」というよりも「作者に関する追従的分析」の性格が強く表出することが多い、ということである。もちろん、太宰作品についての優れた解釈が多数存在することは間違いないのだが。

ぼく自身の専攻は哲学だったが、哲学においてこうした状況に陥りやすい研究対象としてニーチェが挙げられる。ニーチェのテンションにもってかれるわけである。「奴隷道徳」とか「超人」とか、読んでるとテンション爆上がりなのだけれども、真顔で他人に対してそれについて話すのはなかなかキツいところがある。

解釈の阻害要因となるのは、やはり対象との同一化である。自分を投影したり乗っ取られたり、そういう作家・作品は魅力的なのだけれども、それだけ客体化するのは難しい。太宰は読者の「人間として失格している自分」に巣くってドライブしてくるし、ニーチェは「価値体系の転換を望む自分」に呼びかけグルーヴしてくる。それはいわば読む者の血を構成するのである。

それは何か「として」切り出しえないものであり、解釈の俎上に載せることのできないものであると同時に、世界に対する根本態度を形成するものでもある。すなわち、バイブルである。

太宰もニーチェも、20歳ごろのぼくにとってはバイブルだった。バイブルには意味など必要ないのである。たぶんそれでいいし、そういうものがなくては私たちはきっとしんどいのだ。あらゆるものが「として」に分解されうる世界を、誰が望むだろう。

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