埼玉県民が「右折待ちで右に寄らない」のは“心がきれい”だから
東京都民から埼玉県民へとクラスチェンジしたときに、驚いたことが三つある。夜道の暗さ、舗装の悪さ、右折待ちの車の右に寄らなさ、である。前の二つはしばしば言われることだし、まぁ街の規模やら自治体パワーやらで納得できる。最後の現象が謎なのである。埼玉県民は、いや、ぼくが住んでいる飯能に限った話かもしれないが、右折待ちのときに右に寄らないのだ。
もちろん、どこの地方でも右折待ちで右に寄らないドライバーは存在する。しかし遭遇率が尋常じゃないのだ。家から出て300m、前方に見える右折待ちの車。やっぱり寄っていない。そんなんばっかだ。
不思議なのは、右に寄らずに後ろから来る車両の妨げになっている車に対して、特に誰もクラクションを鳴らすなどしないことである。クラクションを鳴らす以外にも、車間を詰めるなり何なりで苛立っている車は目につくものだが、そういう車もないのである。東京だったら至るところに苛立ちムーブが見られ、大阪だったらクラクションが鳴り響くだろう。これは完全に偏見である。申し訳ない。
ともあれ、皆がのほほんとしたまま、右折待ちの車が右折するまで待っている。寄ってくれれば後ろが通れる状況でも、のほほんと待っているのである。そのたびぼくは、突然異文化の中に放り込まれたような感覚に陥っている。運転するたび、5回くらい陥っている。
しかも、この辺の道路はほとんど一車線である。右折レーンも用意されていないことの方が多い。右折待ちが右に寄らないと詰むのである。謎だ。
ぼくはかなりせっかちな方なので、そういう場面に出くわすと貧乏ゆすりなんかし始め、仮に赤信号になるまで足止めを喰らおうものなら、これはもう舌打ち案件である。しかし不思議と、こちらに来てから舌打ちまで至ったことはない。立派な埼玉県民としての自覚を持ったわけでも、洗脳を受けたわけでもない。シンプルに、東京に比べれば交通量も少ないので、そのまま待っていれば割と普通に進めるのである。
してみれば、「埼玉県民は右折待ちで右に寄らない問題」は、単純に「寄らなくても流れがさほど滞らない」という環境に起因していると考えるべきなのだろうか。どうにもしっくり来ない。数十秒の違いではあれ、普通に右に寄って、後ろの車が通っていけるなら、どう考えたってその方が合理的である。謎だ。
飯能の教習所では、右折時に右に寄らないよう指導でもしているのだろうか。そのレベルの寄らなさである。一応、ここまで出てきた材料でも説明はできるかもしれない。交通量が多くないので、寄らなくてもそこまで流れが滞らない。滞らないから、後続車もプレッシャーをかけない。プレッシャーがかからないから、ドライバーも寄ることをあまり意識しなくなる。
筋は通っているように見える。しかし、そもそもの前提がおかしいのだ。これでは、「右に寄ることが特別な配慮」であるかのようだ。人間の元来の性質として、「右に寄ろうとは思わない」派の人たちが多数派みたいではないか。ぼくがずっと違和感を抱いているのはここなのである。これでは右折の性悪説が正しいことになってしまう。
右折の性悪説とは、その名の通り「人間は右折時に後続車両のことを配慮しうる気質を生まれながらに備えているか」に関して、「ノー」を突きつける考え方である。人間はもともと、自分が右折する際に後続車両のことなど考えるようにはできていない。そうであるから、教習所でしっかり右に寄ることの大切さを教え込まなければいけない、というわけである。
ぼくは、右折の性善説の持ち主であった。すなわち、「人間は生まれながらに、右折時に後続車両のことを配慮しうる気質を備えている」はずだと考えてきたわけである。初心者のときにはわからなくとも、自身が右折待ちの車の後ろについたとき、「もうちょっと右に寄ってくれれば行けるんだけど……」という経験を何度かすれば、「自分も右折の時は右に寄らなきゃ」と考えるようになる。そういう「人の振り見て我が振り直せ」的な機能が、人間には備わっているはずではないか。
この考えは、間違っていたらしい。これは、文化の違いなどではない。ぼくが根本的に、人間に対する理解を誤っていたのだ。埼玉の、飯能という土地は、右折の性悪説を通して、ぼくに自身の人間理解の甘さを教えてくれた。
そうであるなら、人間はもともと、他人の行動を通じて自身の行動を省みることなどできないのだろうか。もしかするとそうなのかもしれない。いやしかし、ぼくはそう思いたくないのである。
そもそも、右折待ちの車の後ろについて、「もうちょっと右に寄ってくれれば……」ということを考えないのだとしたらどうだろう?「あぁ、右折待ちしてるな。自分も止まらなきゃ」というわけである。他人の行動に対し、「こうしてくれたら……」などと希望を押しつけることがない。少しもイラッとしていないのだ。これはきっと、心のキレイな人のアレである。これぞ、「シン・右折の性善説」である。
そうだ、埼玉県民は、他人の行動に対する潜在的な修正欲求をそもそも抱えていないのだ。なんていい街なのだろう。ありがとう飯能。フォーエバー飯能。
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