ぼくは世界からきらわれてしまいたい #2

午前のスタジオ撮影が終わり、ぼくはロケバスに乗せられた。中年の女が手渡してきたハンバーグの弁当はバスのなかで強い臭気を放ち、ぼくはそれが自身の内部に入ることを想像してむせかえるような思いがした。口に運ぶと、それはうまかった。ぼくの肉体、内臓がそれを欲していたことに気付き、脳に染みついていく不快な咀嚼音のなか、ソースの色に染まった割りばしの先を、ぼくは憎らしく見つめた。

「午前のぶん、見る?」

差し出されたタブレットにはぼくが映っていた。ぼくだ、とぼくは思った。しかしそれはぼくではないような気もした。ゼラチンを含んでいるみたいにみずみずしく光を反射する皮膚は、そのうちにハンバーグを欲するいかなる器官も備えていないように見えた。

スライドしていくと、いくつかのポーズと表情とを組み合わせただけの退屈な写真が続いた。それは電気ポットを様々な角度から撮影したものと変わらない退屈さだった。こんなものが一体何になるというのだろう?自分の凡庸な姿に嫌気がさしてくる。よく見ると、不自然に引き攣った笑顔や、緊張に光を失った目、そういう隠し切れない不細工な形跡が、ところどころに残されている。それらはなかったことにされ、素知らぬ顔で、選ばれ加工されたひとつのぼくが紙面にのぼる……

それはたしかに誰にとっても都合のよい帰結をもたらす、たのもしい過程であるだろう。けれども切り捨てられるぼくの歪んだ部分、それらがあとから、ワカメのように膨らんで、重々しくぼくに返却されるように思われた。いっぽうここから選ばれるぼくの写真は、ぼくであることを徹底して脱色されて、意味を産出する無垢な像となるのだろう。本来ぼくである必要のない、消費に供されるための像……

濾過をすませた透明な像と、残滓からなる、肉の臭気を漂わせる垢人形……ぼくは自分の身体が、その二つの面に、きれいに分かたれてしまっているように感じた。ちょうどオセロの駒みたいに、この世界のなかで場を占めるためには、どちらかの面を表としなければならない。透明な像はぼくでなくてもよくて、けれども垢人形は嫌悪され、結局裏返らざるをえず、盤上には像が一面に並ぶことになる―欺瞞に満ちた世界になぜ、ぼくは存在しなければならないのだろう? 

ぼくは見捨てられた小象のように、世界のうちに場を占めることを投げ出したい気持ちに駆られるのだけれども、意識の届かないところでなにかが名残惜しく燻っているのを感じる。ぼくの形状がぴたりと嵌まりこむ場所が、世界のどこかに存在しうるのではないか? ぼくを取り巻く世界の形状が、今はたまたま、歪であるだけなのではないか……

低い温度で、情念の火が燃えうつる対象を求めている。ぼくに対するカメラマンの苛立ちと失望を、ぼくは憎々しく思い出す。ぼくを排斥する人間の意図……疎外感は熟して世界そのものへの怨恨となり、目的地に着くころぼくはすっかり世を見下したニヒルな小象になっていた。

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