ぼくは世界からきらわれてしまいたい #1

立っている。ぼくは立ってしまっている。ぶ厚いコンクリートでひんやり隔絶された空間のなか、ひとりばかげた光量を浴びて立たされている。ライトの向こう側は暗く、その奥行きと事物の配置を隠し、なにか空間が無遠慮な延長そのものとなってむき出しにされている感じがする。ぼくを取り囲む事物も、向こうの人影から聞こえるざわめきも、ぼくとの関わりを欠いたまま、ぼくを手掛かりのない穴のなかにとり残している。不機嫌な空間……さもしい本性を現した空間そのものが、ぼくと事物と人間たち、それらの配置を把握していないことを責め立ててくる。

耳をすませる。あらゆる音が直線的に、硬質な響きをもって耳孔を刺す。諸々の声はどれもみごとに事務的なコーティングを施されている。かたい床の上を移動する靴音、設置される器具の音、その他プラスチックや金属の擦れたり衝突したりする音、それらが光の向こうの影のゆらめきと同期して、波の音のようであったらいいのだけれど、出所と行き先とが交錯する意図の氾濫は、ぼくの筋肉を不快な緊張で覆っていく。

「オッケーです、じゃ、撮っていきまーす」

明確な音の形がようやく、方向と距離の感覚を回復させた。けれどもすぐさま響いたシャッター音に、ピピピと随伴してくるアラーム音が、得体のしれない信号として、内容を欠いた命令を身体に伝えてくる。それはただ立っているぼくを急かし、ぼくのなかから何かしらのぼくを提示するよう促してくる。音のたびぼくは何かでなくてはならない、けれども容赦なく鳴り響くシャッターのペースは、ぼくがポーズを考えて固める猶予をまるで与えず、暴力的に無防備なぼくを切り取っていく。

甲高い音の連続に脅かされながら、しだいに浮かび上がってくる事物の配置に、ぼくは人喰いマントヒヒの棲み処に迷い込んだ子どもみたいに、なにかしら馴染みのあるものの形跡を探る。カメラのレンズが浮かべる頼もしい輝きにぼくは見入った。それは不確かな空間から、あらゆるところへぼくを連れ出しうる通路であるように思えた。何度でも、それは狂いのない同じ方式でもって、ぼくを切り取っていくだろう。

脅迫的だったシャッター音が、しだいに鼓膜に馴染むにつれて、ぼくの肉体は命令の内容を理解していく。音を追って関節が動く、それを繰り返していくうちに、いつのまにか順序が逆になって、関節の動きを追ってシャッターが鳴る。ぼくとカメラとの間に、合意されたペースが形成されていく。それはライン工を動かすベルトコンベアの駆動音となって、おのずと肉体の律動を生じさせてくる。合意によって軽くなった脳が、肉体の動きを単純な作業に還元していく。

フレームのうちに切り取られる無数のぼくのなかから、彼らは適切なものを選び加工して、それが確かなぼくの像となって人々の目に触れる。それはぼくの様々な想念とか情動とかからは切り離された過程であって、要するにぼくはここで無責任な素材であればよかった。ただこの場に響く音に、身体を預けておけば、ぼくの関与しないところでぼくが作られ、なんであれそれがぼくになるのだ。そこにはぼくの肉と精神の醜さを排除した、ひとつのたのもしさがあった。

「チェック入ります」

カメラと同化していた男の顔が、カタツムリみたいに生えてきた。うしろのノートパソコンで、現場監督とともになにかを確認しはじめる。残されたカメラは事物のような顔で、レンズを静かに輝かせている。迎えを待つ子どものような所在なさのうちに、またなにか脅迫的なものが潜んでいる気がするのだけれども、それは記憶にない罪のように捉えがたい形をしている。

ぼくを変形させてしまいそうな器具を腰に巻きつけた女がこちらに寄ってきて、盗品を確認する警官みたいな注意深さでぼくの肌と衣服を眺めまわした。

「汗、直すんで腰落としてください」

ぼくの額には汗が浮かんでいるらしい。自分の肉体のうちの循環が、この場に馴染まぬ、余分なものであるように感じる。シャッター音を失い、のっそりと、しかしカクついた動きで中腰になったぼくの額を、女はリスのように細かく刻まれた動きで拭き、顔の全体を軽快なスナップで掃いた。それはなにか、し瓶で尿を採取されるような気恥ずかしさをぼくに感じさせた。女はガンマンのような手つきでスポンジに持ち替えると、ぼくの顔面に何かの粉を打ちつけ、ぼくの皮膚に浮かぶ醜さを押し隠した。

惨めさに打たれながら、ぼくはカメラに視線を向けた。そのレンズは孫の善良さを信じ切った祖父の目を思わせた。ぼくは一抹のやましさとともに、彼がぼくの肉体の醜さに目を瞑り、装飾された面だけを切り取ってくれるという確信に安堵した。

撮影が再開され音がまたぼくを促してくる。ぼくは従順な事物となって、促されるまま関節を動かしていく。

「オッケー、じゃあもうちょっと、色気出した感じで」

カメラの裏から響いた声が、カメラとぼくの間で合意されていたはずのペースに亀裂を生じさせた。色気、という言葉の意味を、身体への信号に変換する術をぼくは持っていなかった。思考が堰を切ったように押し寄せぼくは硬直し、カメラのシャッターが止まってぼくの次の動きを待った。整理されないまま、とにかくぼくは首を少し傾け流し目を作ろうとした。探るようにシャッターが鳴り、また次の動作を促してくる。自身の全体像があやふやになり、ぼくは頼りなくなった関節をマリオネットみたいにぎくしゃく動かした。申し訳程度に数回シャッターを押したあと、カメラマンが顔を覗かせて言った。

「ちょっと、どうしたの、全然カッコよくないよ」

話が違う、とぼくは思った。ぼくは単なる素材ではなかったか。それに意味とか解釈を重ねるのは、そちらの仕事ではなかったか。

「いいや、もう、普通にポーズ取って」

ぼくの不満が伝染したみたいに、カメラマンはそう吐き捨てカメラの裏に隠れた。再び鳴り響く電子音はもはや、単純な律動をぼくに促してはくれず、そのレンズの奥にはカメラマンのものだけではない、巨大な人間の意図の総体が潜んでいるようで、ぼくはそこに身体を預けるだけの信頼を寄せることができなくなっていた。事物も人間もよそよそしく、しかし軽蔑の目をぼくに向けているように思えた。

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