ぼくは世界からきらわれてしまいたい #41

「なんですか」

マリの低い声が物質的な壁となってぼくの心臓を囲う。けれどもぼくはそこから明るい像へと通じるわずかな通路を、用意されているはずの豆粒ほどの受け皿を、その声のうちに探り当てようとした。

「産んでほしいんだ」

「は?何を言い出すかと思えば」

結局ぼくは壁を強行にこじ開けようとしたわけだった。もっとも隙のない正面を選んでしまったように思い、これは分の悪い戦いになるだろうとぼくは直感した。

「あのとき、混乱して、自棄になって……取り返しのつかないことをしてしまった。本当に、申し訳ないことを……それでも、あのあと、喜びがあふれてきたんだ。君との子ども、その存在に対して」

言葉のひとつひとつに、思いもよらぬほど白々しい響きが宿っていることに気付き、ぼくは隙だらけの自分を恥じた。

「気分で勝手なこと言わないで。こっちの身にもなって。産むのは私、現実的に苦しむのは私なの。私を汚したものから生まれてくるものを愛せるか、成長をよろこべるか、お金はどうするか、子どもと一緒にどんどん膨らんでいくの。あなたに何一つ、解決できないでしょう」

相手との戦力差にはじめて気付いたボクサーのように、ぼくは愕然として打ちひしがれながら、どうにか言葉を探す。

「仕事はすぐに探す。そうだ、大きな仕事がひとつ入ったんだ。これをきっかけに…」

「ふざけないで。悠長なこと言って、自覚がない証拠。あなたの存在もろとも消し去りたい。わかる? あなたは、ウィルスをまき散らすゴキブリみたいなもの。わかる? ゴキブリの菌に感染して、でもその菌はわたしとも繋がってる。愛さなきゃいけないって、わたしじゃないわたしが、スイッチ入ったみたいにわたしを乗っ取ろうとしてくる。これまでのわたしまで、どんなだったかわからなくなる。リセットしなきゃいけない。菌をぜんぶ、記憶からも身体からも、あなたの形跡すべて。ほんとは署名も頼みたくない」

とどめの大振りに、けれどもぼくは付け入るわずかな隙を見た気がした。

「そういうスイッチを、ぼくも押されたんだ。ぼくはどういう形にもなれる。これは受け入れるべき変化なんだと思う」

「わかったようなこと言わないで、気持ち悪い、なんで上からものを言うの、あなたみたいな人が」

「でも、受け入れるべきなんだ、ほんとうに。変わらなきゃいけないんだ」
「きれいごとばっかり言わないで。それなら今すぐ、ちゃんとした仕事見つけてください。それだけ言うならできるでしょ。あなたがものを言えるのはそれから」

攻勢に転じようとするぼくの行く手を、マリの「今すぐ」という言葉が固く塞いだ。硬質な現実を素材とする時間の槍が、ぼくのまわりに突き立てられて、どのようでもありうるはずのぼくを著しく制限した。

世界は再び動きのない重々しさに包まれ、切られた電話口に響く電子音だけが、ぼくに行動を起こすよう迫ってくるのだけれども、可能性へと開かれていたはずの肉体は、こぢんまりと萎んでしまっていた。

雷みたいにぼくの精神を変容させたものが、これほど容易に抜け落ちていったことを受け入れられず、ぼくは意固地な子どものように、どうにかその残骸を探し集めようとした。ぼくは求人情報を眺めながら、それぞれのありうるぼくを想像した。

居酒屋で高血圧のニホンザルみたいな中年男の舌打ちに笑顔で応じるぼく、駐車場の入り口で核家族の苛立ちを排出する車のために空きを探すぼく、肉を萎れさせていく時間のなかで、毎日同じ会話に同じ相槌を打つぼく……

どのイメージもどこか白々しく、現実的な重みをもって現れなかった。あるいはそれらは、あまりに重く退屈であるために、ぼくが現実として扱いうる容量を超えてしまっているのかもしれなかった。

たしかにぼくはどのようであってもぼくなのだろう、どの型のうちにはまろうと、その型のうちに鬱積していくものをぼくはいずれ、マリと子どもに押しつけるように思われた。ぼくを貫くひとつの力によって、その子も同じ変形を被ることになるのだろう。

どのようであれ、いずれ同じものが再生産されるに違いなかった。どのようでもありうるその可能性は、極彩色であることをやめ、結局ネズミの灰色かウサギの灰色か、そういう些末な差異からなるグラデーションの一点へと埋没していった。

だいたいからして、肉体の、生物的構造から生じたに過ぎないものに、なにかしらの可能性を見出そうというのが間違っていたのだ。先の確信も、そういう肉体的次元の構造から生じさせられた脳内物質の変化にすぎなかったのだろう。マリの言うようにそれはスイッチだ。種の保存のためにプログラムされた反応にすぎないのだ。

ぼくはそのまま、結局どこにも電話をかけることがなかった。

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