cakesの「ホームレス取材記事」炎上について

消費社会においてはあらゆるものが価値化されるのであって、人間の生も「消費される価値」の最たるものとなる。

cakesに取り上げられたホームレス取材記事が炎上している。もともとnote上でホームレスへの取材や支援活動を行っていたライターの記事を、cakes編集部が「クリエイターコンテスト」における優秀作品として取り上げ、cakesのメディア上でも連載を始めた形である。

ライターの活動に対する批判、cakes編集部に対する批判など行き先は異なっているが、概ね共通する趣旨としては「ホームレスを珍しい生き物のように観察している」というものであり、要するに「他者の生をコンテンツとして消費する」クリエイターやメディアの態度に対する批判である。

個人の活動としては尊敬すべき取り組み

私個人の意見としては、「ばぃちぃ」氏のnote上での取り組み自体は明確な理念に導かれているものだと思っている。私自身足の重いライターであるから、現地で取材を行いつつ、noteで支援を募り、その支援額をホームレスへの食料として還元する「おにぎりプロジェクト」など、現実の問題に対してコミットしていくライターは素直に尊敬する。一般に知られていなに問題との「接点」として自らを機能させようというスタンスは、言葉の本来の意味での「メディア」としてあるべき形とさえ言えるのではないか。

note上での記事も、基本的にはルポルタージュ形式であり、ライター自身の主観や作為を甚だしく感じることはない。巨大媒体であればポリコレ的に配慮が甘いポイントもあるけれど、基本的には現実に起きていることを、ありのまま社会に伝えようというスタンスから始められた取り組みであることを伺わせる。
(「ホームレス人生ゲーム」という企画がとりわけ叩かれており、確かにこれは擁護のしようがないけれども、おそらく「ゲームを通じて私たちの〈あたりまえ〉がいかに〈あたりまえ〉ではないのかに気付く」みたいなことがやりたかったのだろう……)

「コンテンツ化」はcakesの編集によるもの?

ところがcakesでの連載記事の方では、途端に「商業的コンテンツ」としての色合いが強くなる。先の記事は批判を受け随所に修正が行われているため、細かい箇所について指摘はできないが、もっとも根本的なのは「ルポルタージュ」が「ストーリー化」されている点である。「取り組みのきっかけ・動機」からはじまり、「ホームレスとの交流により、自分たちの固定観念に気付かされる」という「〈気づき〉の物語」として、明確な作為のもと構成されている。以下の一文が典型的だ。

それは日常の中ではあまり味わうことのない感覚で、おじさんたちと会話を交わしたからこそ認識できた、私たちの中に染み付いていた、ある無意識の思い込みだった。

大仰な「気づきへの導入」であるが、この後示される「気づき」は「ホームレスもモノのきれいさや使いやすさにこだわる」というごく小さなものである。大きな舞台装置にホームレスの生活をあげて、大げさな身振りでその性質を示す、という形であり、それまでのルポルタージュにはなかった構造である。

おそらく批判の根本的な原因は、この「作為的なストーリー化」である。自分自身の「〈気づき〉の物語」に、ホームレスという「他者」を取り込んでしまうことの暴力性が、批判の槍玉にあげられているのだろう。
ルポルタージュであれば、筆者の動機も気づきも書く必要がない。必要がないというか、主観的なもの、すなわち「事実を歪曲しうるフィルター」として排除されるべきものだろう。けれどもおそらくcakesでの連載にともない、「ストーリー化」の必要が生じ、この「フィルター」が顕著に表れてしまったのである。

「ばぃちぃ」氏がnote上で「cakesでの連載」を報告した記事には、上記のような「ストーリー化」を示唆する記述がある。

田舎の河川敷に住むホームレスのおじさん達。
過酷な生活を支えるためのもの作りや、生きていくために発揮しているエネルギーに焦点を当てて書いています。
noteでのルポよりも、もう少し私達の考えや意見が入っています。
cakesクリエイターコンテストで優秀賞をいただき、連載する運びとなりました。連載では編集の方が入ることもあり、私達だけで書いている時とはまた違う、新たな一面を私達自身感じることができました。
また、3年ほどやってきたおじさん達への取材がこうして形になることも本当にうれしく思っています。この連載で、おじさん達への気づきをさらに増やして、おじさん達の魅力を発信していきたいと思います。

ルポよりも主観的な要素が入っていることが記載されており、編集によって新たな観点が取り入れられていることが示唆されている。編集的な視点から、「気づき」を中心にしたストーリー仕立ての構成が行われたのだろう、というのは邪推だろうか。

cakes的なナラティブ

「気づきを中心とした物語」という構成は、cakes的なナラティブの典型である。cakes編集長のnoteアカウント冒頭に固定された記事を見れば、cakes的なトンマナのようなものを理解することができるだろう。

人生を肯定する「気づき」を中心としたストーリーに、身の回りの世界を取り込みながら、「自己表現」として装飾していく。それ自体は批判されるべきものではないし、むしろ自身の生を意味づける普遍的なナラティブであるともいえる。しかしこれが、「コンテンツ」となるとどうだろう。問題は「個人の生の意味づけ」という領域を超えて、「他者に向けて自らの価値基準を押し出していく」領域へと及んでいく。

ストーリー化は必然的に、自身の価値基準のうちへの他者の包摂をともなう。このようなストーリー化の暴力性は、クリエイターやメディアにとっての宿命であり、「知られていない問題をわかりやすく社会に広める」活動の背後に必然的について回るものである。大熊氏の記事についていえば、難聴の子どもがこれから抱えていくであろう困難について「お前が今まで聾者にしてきたことが、この子がこれから立ち向かう社会だ」と記述している点は、読者に気づきを与えるメディアとしての責任を大いに果たしていると思える。しかし、大江健三郎にも同種の批判があったように、「そもそも障害をもった子どもをコンテンツ化すること」によって生じる暴力性について、作り手は常に向き合わなければならない。
たとえば大熊氏が自身の妻を称揚する以下の部分は、暴力的になりかねない記述である。

多くの親がショックを受け、泣きぬれて、立ち直るまでに何ヶ月もかかったと書いていた。でも妻は、一週間ほどでさっと切り替え、聴覚障害者教育について調べだし、今は手話をどうやって勉強しようか考えている。サラリーマンとしてバリバリ働きながら、ひとりで子どもを小学生まで育てただけのことはある。

何かを肯定することは、対極の何かを否定することであり、ストーリー化の手法はこの「価値化」の目線と不可分な関係にある。

cakesは先日、幡野広志氏の炎上騒動をめぐる謝罪文のなかで「再発防止策」の一つとして「DVやハラスメント、差別など、さまざまな問題を考えるコンテンツの掲載」を挙げた。

cakes的な「ストーリー化」のナラティブを維持しつつ、こうした問題を「コンテンツ」として扱いつづけることができるのか。今回のホームレス取材記事の炎上は、「知られていない問題を社会的に広める」ことを目的としたあらゆるコンテンツに対する問題提起として受け止める必要があるのだろう。

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