ハイデガーとミニマリスト

ミニマルな暮らしなんて、いやらしい。それは切迫した生存の次元がまったく問題となることのない、贅沢な人間のみに許された特権的なお遊びである。「東京西側放送局」の第6回の結論は、大体のところこうなるだろう。

ミニマリストについて、ミニマルに考えてみよう。突き詰めていうならば、ミニマリストガチ勢が目指しているのは「自己の原理主義」である。生きていくうえでなくてはならないものを、極限まで選択していくプロセスは、かならずや自分自身の「軸」を見出すことにつながる、というわけである。

20世紀ドイツの哲学者、ハイデガーの忌み嫌われる概念に、「本来性」という言葉がある。自分自身の存在に備わる固有性、みたいな話である。ざっくりと、「自分自身のあるべき姿」と言ってしまってもいい。

なぜこれが忌み嫌われているかといえば、要するにキモいからである。ざっくり論旨をまとめよう。

曰く、自分自身が有限であることを自覚していない人間は、自己がどのようにあるべきかといったことに目を向けず、ただなんとなく、他人がしているのと同じように生き、世間に埋もれていく。これが非本来的な状態である。

反対に、自らの有限性を自覚した人間は、自分自身の本来の可能性に目覚めることができる。無限に生きることはできないのだから、余計なモノに目を向けている暇はないのである。

一見、まともなことを言っているように見える。何がキモいのか。「本来の可能性」なんてものがあると、ナチュラルに前提しているからである。

「余計なモノをそぎ落とした時に残るモノこそ、自分にとって本当に大事なモノだ」

ハイデガーの「本来性」をめぐる議論がミニマリスト的なのは、こういうところである。「何かが残る」と思っていやがるわけである。

自分を構成するさまざまな要素をそぎ落とした時に、「それでも自分には何かが残る」と思える人間は、すでに自分自身の生を肯定的に意義づけることができている。ミニマルに暮らすことは、その意義を後から補強するための理屈探しでしかない。

さらに言えば、「余計なモノ」なんて言っている時点で、潔癖なのである。自己と他者の「クラスの違い」みたいなものを前提していないと、言い換えれば自分自身を「聖」の側に置いていないと、こういう見方は出てこない。総じて、血統主義的なのである。

もちろん、自分の世界を認識する主体が自分である以上(よくわからないが)、世界を観測する自分を特権的に位置づけるのは当たり前である。とはいえわざわざ、自分から「そぎ落とす」ことをしてまで自分自身の存在価値を確認しよう、なんてのは、贅沢極まる遊びではないか。「自分自身の存在価値」に、どれだけの価値があるのだろう。

もちろんこれはすべて、貧乏人の僻みである。ぼくもきっとお金を持っていたらミニマルに暮らしてみたりするのだろう。

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