ぼくは世界からきらわれてしまいたい #24

マリの話には迂回が多かった。表情そのものが、なにか明確な形状を避けながら動いているように見えた。それがあの男を前にしたときの形であるように思い、ぼくは苛立った。

被害者であることを装いながら、この女はそのときの悦びをたしかに享受していたのではなかろうか。そんな疑念がぼくのうちにじんわり広がっていた。

「いけないって、わかってるんです、わたしがはっきり拒まないとって、わかってはいるんですけど、でも」

でも、とマリは繰り返すのだけれども、そのあとに続く言葉は発されることがなかった。芯の軋むシャープペンで着地点の見えない文章を書いているみたいに、意識の膜が蝕まれていく感じがした。ぼくはテキーラを一口に飲み、同じものを注文した。

「わかりますよ、立場からして、断れませんよね」

同調するぼくの言葉に、マリは安堵しながらも眼球の奥を澱ませるのだった。ぼくがあの男に対して強姦魔のレッテルを貼ろうとしていることに対して、なにかしら不服を感じるところがあるのだと思った。

ぼくはそのマリの反応に、自身が辟易しているのを感じる。それなら虐げられていればいいではないか。ぼくはまた、渡されたテキーラをそのまま一口で飲み込んだ。アルコールに、体中の不純なものが燃え上がる感じがする。

「しかしなんで偉い人ってのは揃いも揃って、他人の弱みを利用するのがあぁも上手いんだろう。それがそもそも権力者の資質なのか、立場が人間をそうさせるのか……」

苛立ちをそのままマリに当てつけようとして、なにかそれ以上の鬱屈が漏れ出していったのを感じ、ぼくはすこし気まずい思いがした。

「でも、そういうのとは違くて、普段はほんとにいい人なんです。だから断れなくて」

マリは諫めるようにぼくの目を見ていった。この女は、一体なにを弁護しようとしているのだろう。あの男の存在というだけではない、なにかより大掛かりなものが彼女に巣食っている感じがして、ぼくは不快に思う。

「そういうのが、彼らをつけ上がらせるんですよ。結局あなたは、そういう扱いを受けてどこかで安心しているんでしょ。かわいそうなままでいることが、あなたの存在意義だなんて考えているんでしょう。それならずっとオモチャにされていればいい」

マリの瞳の奥には光が感じられず、けれどもその潤んだ表面は、照明を反射しゆたかな輝きを浮かべていた。それはなにかマリの存在を、つややかな陶器のように思わせるものだった。

それは一見、いかなるものも注ぎ込むのに不適切ではないような、そういう器であるように見えるのだけれども、その不気味な吸引力は、ぼくの動力機関のうちからなにか決定的な部品を奪ってしまう罠のようにも感じられた。

「ごめん、言い過ぎました。ちょっと、トイレに」

そう言って立ち上がると、マリが何かに気付いたようにぼくの顔を見上げて言った。

「トイレ、あっちですよ」

その眼光のうちに場に馴染まぬ鋭さがあったように思い、象が蜂に尻を刺されたような、かすかな違和感が残る。トイレに向かううちそれはじわりと知覚に広がっていき、尿をめぐるぼくの疚しさと結びついて、恥辱の念を突沸させた。

屋上に残された水たまりとアンモニア臭……あれが他人の意識に触れうるものであることを、どうしてぼくは自覚していなかったのだろう。ぼくの尿が解釈を待ち望むようにその場に残され、マリの目に触れた……いまやその尿のイメージはぼくの付属物として、ぼくの存在に投げ返されて、彼女のなかでぼくは小便小僧として確かな場を占めている……小便器に向かってペニスを露出するが、マリに自らの臭気を嗅ぎつけられたことを恥じるように尿は引っ込んでしまっていた。小便小僧としての役割も、ぼくは遂行できなくなっているわけだった。

像から落第していくことの無力感が、体内の気圧を押し下げて、混濁したリビドーの渦を散乱させていく。ぼくのうちの垢人形を、女の作る像などに収められてはならない……ぼくのうちに渦巻くものは、女の肉体を変容させる力でなくてはならない……しかしあの女の存在に届く手段が、どこに残されているだろう?

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