「自己責任」は不幸の呪文

「それってあなたの感想ですよね?」

議論における根本姿勢みたいなものに、商標権をつけることが可能であったなら、ひろゆき氏はこの言葉だけで億万長者になっていただろう。いや、もちろん、そんなものがなくとも彼は億万長者なのであるから、私たちは至るところで権利フリーの「それってあなたの感想ですよね?」式の態度を目にすることができるわけである。

コラムニストの小田嶋隆氏は、SNS上の議論において「感情を軽蔑する傾向」が、「この10年の間にインターネット言論の中で起こった変化のうちで、最も顕著なもの」だと指摘している。震災以来、被害に対する共感への同調圧が強まるなか、それに対する反動として感情の発露を忌避する傾向が加速している、といった流れだ。

少し前に流行った「SNS疲れ」というのは、こうした動向とはまた少しベクトルの異なるものであった。それは要するに「自分を飾る」ことに対する疲労感であるのだが、小田嶋氏が指摘しているのは他者の強烈な感情に対する辟易であり、それに由来する「お気持ち表明」に対する冷笑感である。

なぜ「感情の発露」は嫌われるのか

「それってあなたの感想ですよね?」というのはすなわち、「公的な場でなされる議論において、主観的な要素は排除すべき」ということを言っているわけである。ここで前提とされているのは、〈主観性は、「公正さ」「全体としての利益」を歪める悪しき不純物である〉という考え方だ。

ここでいう「感情」あるいは「主観性」とは、「自身の利益関心にもとづく心の動き」である。これが全体としての利益を歪めると考えられているのは、往々にしてこの心の動きが「社会に対して、自身の声を反映することを要求する」からだろう。「お前が個人的に恵まれないからといって、みんなを巻き込もうとするんじゃない」というわけである。

みんな同じ条件で苦労しているのだから、自分だけ気持ちを汲んでもらおうなど烏滸がましい。お前がそういう状況に陥っているのは、ほかならぬお前自身の至らなさのせいなのだ。そう、あらゆる個人的情動は、「自己責任」という言葉のもとに切り捨てられるわけである。

自己責任論の欺瞞

「個人的な感情は、全体としての利益を歪める」というテーゼにおいて覆い隠されているのは、「現状のシステムの恩恵に与っている側」の感情である。「このシステムが続いてもらわないと困る」という思いもまた、「主観的な感情」にほかならないわけであるが、自己責任論はこのことを「変化を求めない人間が大多数だという事実」のうちに隠蔽してしまう。

シンプルな例で話そう。ある教員が、容姿に優れる数人の女子を特別扱いし、評価にも少しばかり下駄を履かせているが、その他の生徒に対する評価は公正である。ここで、低い評価を付けられた生徒が「ひいきをやめてくれ」と訴え出たとき、その他の生徒達は同調するだろうか? 教員が圧をかけたり、その女子が泣き出したり、といったことをするまでもなく、ほとんどの生徒は黙ったままなのではないか。ひいきの「しわ寄せ」はそこまで大きなものではない。黙っていれば、それなりに成績に見合った評価は得られるのである。反抗して、目を付けられる方が厄介だ……多くはそのように考えるのではないか?

「変化を求めない人間が大多数だという事実」は、しばしばこのようにして形成されていないだろうか。歪みをそのままにしていても、それとうまく付き合うことで生活が保障されるのなら……社会生活のなかで、そのような「現状肯定」に流されたことのない人がいるだろうか?

惰性的に現状肯定に流されることと、明確に変化を拒むこととの間には隔たりがある。現状肯定に流れる「世間」を盾に、変化を求める人間の声は「主観的」と切り捨てられる一方で、変化を拒む人間の主観性は隠蔽されつつ肯定される。

現状肯定の態度は自らの不幸をも是認する

私はこれを書くことで、「少数の主観性にも耳を傾けなければならない」と言いたいわけではない。あるいは、「既得権益はけしからん」と言いたいわけでもない(いや、言いたいのだが、これは個人的な感情である)。

問題として取り出したいのは、「現状肯定に流される世間」の存在である。といっても、「思考停止して流されるな!」みたいなことを言いたいわけでもない。

結局なんなのか。私が明確に示しておきたいのは、我々は現状肯定に流されているとき、自らが被っている不利益に対して盲目になりがちである、ということだ。

自分がブラック企業で働いているとしよう。始発から終電は当たり前、職場では上司の怒号が飛び交い、休日出勤も常態化している。心はもう無の状態になって久しい。それでも、会社で夜を明かすときの、シーフードヌードルに幸せを感じたりする。
そんななか、まだフレッシュな新入社員が上司に必死に食らいついているのを見ても、多分同調できないだろう。「一緒に労働組合作りましょう」などと言われても、面倒に感じてしまう。ともあれ、この環境で自分はどうにかやっていけているのだから。

適応能力は、生物の有する最も偉大な能力である。さまざまな環境に対して、私たち人間は精神構造をどうにか適応させることで、苦境を乗り越えようとする。裏を返せば、私たちはどれだけひどい境遇にあっても、それを肯定してしまいうる、ということである。

私が言いたいのは次のことだ。すなわち、「自分にとって面倒に思える相手の主張は、もしかすると自分にも益をもたらすことになるかもしれない」ということである。感情的になっている相手に対し、「それってあなたの感想ですよね?」と「論破」することはたやすい。けれども、その相手は本当に「論敵」だったのだろうか?

私はなんだか、昨今の「お気持ち表明」に対するアンチテーゼの趨勢に、「敵を間違えてないか?」と思わずにはいないのだ。

余談だが、私はこれを、「選択的夫婦別姓」に反対する人々についても言えることだと思っているのだが、その主張はまた別の機会に譲ることにしたい。要するに、「家父長制的なイデオロギーによって害されているのは女性だけじゃなくね? 脊髄反射的に批判することで、余計に自分の首締めることになってね?」というわけなのだが、いつ書くかについては約束できない。

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