渡邊雄太の「ポスタライズ騒動」から見るNBAの「アジア人差別」

NBAにおける「アジア人差別」の問題が顕在化している。

発端は、2月19日のトロント・ラプターズ対ミネソタ・ティンバーウルブズの対戦で、ラプターズの渡邊雄太が相手のドラフト1位ルーキー、アンソニー・エドワーズに強烈なダンクを叩き込まれたことである。

今シーズン最高のダンクとも評される一撃を、真っ向から食らってしまったことにより、渡邊雄太が撥ねのけられるシーンは今後何度も放送されることになる。エドワーズが今後、スーパースターにでもなろうものならなおさらだ。ちょうど、松坂大輔のデビュー戦において155km/hの剛速球に空振り三振を喫した片岡のようにである。

NBAではposterizeという言葉がしばしば用いられる。そのまま訳せば、「ポスターにする」ということだが、上の動画のサムネを見てもわかるように、鮮烈なポスターになるようなダンクをかますことを指す。注目すべきはこれが他動詞として用いられることで、要するに「ディフェンスを吹っ飛ばして、情けない姿をポスターにしてやる」というニュアンスを含むわけである。

“Anthony Edwards posterized Yuta Watanabe”という形で、渡邊雄太の名前は全米に知れ渡ることとなった。ポスタライズされた選手が、その姿をメディア上で弄られる、というのは定番の流れであり、例に漏れず渡邊も方々から強烈な「イジり」を受けることになる。

たとえばこの記事では、ダンクを食らった後の渡邊のリアクションをことさらに取り上げ、ふらつきながらファウルをアピールする渡邊の姿を嘲笑している。(なお、厳密に言えばエドワーズは左手で渡邊を押さえつけているので、オフェンスファウルをコールされてもおかしくはない。さらに、ドライブ前にサイドラインを踏んでいるので、そもそもアウトオブバウンズである)

さらに、悪ノリした何者かが渡邊雄太のWikipediaを改変し、エドワーズのダンクによって殺されたことにしてしまっている。(現在は削除済み)

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加えて、コメディアンによるSNS上でのイジり。

写真に加え、「こんなん食らっちゃ、もうリーグからいなくなるしかないわ、彼とその家族に祈りを捧げるわマジで……」的なコメントが掲載されている。注目すべきは、NBAのトッププレイヤーであり、アスリート界においても絶大な影響力を誇るレブロン・ジェームズがこの投稿に「爆笑の絵文字を連発」でリプライをつけている点である。インスタフォロワー8,000万人のレブロンによる嘲笑は、下手なメディアによる弄りよりも、はるかに波及力があるだろう。

やられた姿を嘲笑するのはNBAの流儀

実際のところ、この辺りまでの反応はNBAにおいては「平常運転」とも言えるかもしれない。HIP-HOPにおいて「ディス」が一つの「作法」であるように、バスケにおいてはコート上でのマウンティングが重要な意味を持つ。トラッシュトークや派手なジェスチャーで相手を挑発し、自身の優位を示して心を折る、というのはストリートバスケに通じるNBAの伝統的なマナーであり、マウントを取られた方は嘲笑の対象になるのである。

前NBAコミッショナーであるデビッド・スターンの取り組みにより、ドレスコードや試合中の示威行為に対する罰則が強化され、NBAは以前ほど「ストリート感」がなくなったものの、野球で言う「バット投げ」のように、デモンストレーションとしてのプレイが称揚されるのは避けがたい節がある。

コート上は自らの存在価値を証明する場であって、長らく差別対象とされてきた黒人選手たちにとっては、なおさらその意識は強いと考えられる。proveという言葉を彼等はしばしば使うけれども、彼等に問われているのはプレイヤーとしての能力以上に、「自身の存在そのものが、一つの立ち位置を得られるかどうか」なのである。

かつてアスレティック能力に優れるディフェンダーとして活躍したケニョン・マーティンは、「ブロックはstatementなんだ」ということを言っていた。「ゴール下は俺の居場所だ」と、縄張りを宣言するわけである。それぞれの選手はそれぞれの仕方で縄張りを主張し、居場所を確保しなければならない。

NBAは、そのような黒人選手達による「存在の賭け」が一つの大きな魅力である。「同じ2点だピョン」という深津の名言もあるが、NBAにおいては同じ2点であっても、ダンクをかました、クロスオーバーで相手を転倒させた、ブロックで相手のシュートを弾き飛ばした、といった鮮烈なプレーが、「存在証明」としての意味を持つことになるのである。

そうした背景ゆえに、「ポスタライズされた」「アンクルブレイクされた」といった姿を晒すことは、underdog感をことさらに強調することになる。実際のところ、エドワーズにダンクをかまされた時の渡邊の動きは、ヘルプの速さやポジショニングの正確性において文句をつけられるようなものではないのだが、それでも「惨め」な姿として捉えられることには変わりがない。

そのため、メディアで多少揶揄されようが、それを撥ねのけてこそプロである……のだけれども、今回ばかりはそのような「NBAの作法」といった問題を超えて、人種差別にもつながるレベルの話になっている。

浮き彫りになったアジア人蔑視

渡邊雄太のインスタアカウントには「RIP」系のコメントが殺到している。彼の最終投稿に寄せられた投稿数は7,000を超え、もちろんその中には激励や擁護の声もあるのだが、もはやヘイトスピーチと見なしうるものも散見される。

「ノロマなアジア人は帰れ」的な内容や、ひどいものになるとエドワーズのダンクを原爆に例え、“Hiroshima, Nagasaki, Yuta Watanabe”というものまで、目を疑うような投稿も見られる。

そもそもチームと正規の契約をしていない選手個人に対して、これほどの攻撃が集中するというのは聞いたことがない。

こうした事態を受けてか、ESPNは2月22日、アジア人差別に反対する声明を出した。

渡邊雄太のポスタライズ騒動が、この声明にどの程度影響したのかは明らかではない。コロナを機とする黄色人種への差別意識の高まり、といった潮目もふまえてのことだとも考えられる。

「白人社会」におけるアイデンティティの主張がもたらすもの

HIP-HOPが既存の権力構造に対するアンチテーゼである(であった)ように、バスケットボールの「コート上での存在証明」というストリート的な命題は、自らを被差別層としてきた社会に対するstatementとしての意味を持つ。

バスケットボールは団体競技でありながら、個人の担うウェイトがとりわけ大きいスポーツである。ポジションごとに大まかな役割はあるけれども、サッカーやアメフト、野球のようにプレイエリアが定められているわけではないから、基本的に誰がどこにいて何をしようがいいわけだ。必然的に、五人のうちに「デカくてクソ上手くてバカ速くてアホ強い」みたいなのが一人いれば、それだけでチームは一気に強化される。これに該当するのはNBAだとレブロンだろうけれど、レブロンが入ったチームはこれまでことごとく優勝候補になってきた。チームスポーツで、「選手一人入っただけで優勝候補」という競技はそうそうないのではないか。

競技の特性からして、バスケはエース選手のヒロイズムが全面に押し出される。人種や生まれに関わりなく、驚異的な身体能力やプレイの創造性によって「コート上の主役」となりうるバスケは、とりわけ貧困層出身の黒人選手にとってスターダムへのし上がる数少ない道だ。

同時に、そうしたNBA的ヒロイズムの対極には、身体能力に劣る白人選手の存在がある。“White men can't jump”という言葉はアメリカバスケ界のクリシェであり、映画のタイトルとして使われるほどである。

「白人は軟弱でプレーに華がなく、シュートくらいしか能がない」というステレオタイプは、それを乗り越えた白人選手へのリスペクトに満ちた愛称からも見て取ることができる。かつてクリエイティブなパスでファンを魅了したジェイソン・ウィリアムスは白人であったが、ストリート的なプレースタイルで成り上がったことを表し“White chocolate”と呼ばれていた。肌は白いが、プレーは黒人というわけだ。

ブラックミュージックが「黒人のもの」とされるように、バスケットボールも黒人文化の一角として見なされている。そこではある種の「逆差別」のような現象が起きているわけであるが、そもそもが「白人中心の社会のなかで黒人が自らの存在を主張できる数少ない場」であったことが、ブラックカルチャーにおける黒人の連帯意識を形成していたのだから、こうしたメンタリティを「逆差別」と断じるのは性急すぎる、というわけだ。

けれども、嘲笑の対象がアジア人となるとまた話が複雑である。「抑圧への反抗としてのブラックカルチャーのなかでアジア人が差別される」という構図になるわけだ。

ひとまず、一旦ブラックカルチャーというものをカッコに入れて、バスケットボールにおいてこれまでどのようなアジア人差別があったのかを見てみたい。

もっとも差別されたアジア系プレイヤーは

NBAにおいてもっとも成功したアジア人は、229㎝という規格外の身長に柔軟なスキルを兼ね備えたヤオ・ミンである。ルーキー時代、当時NBAナンバー1センターであったシャックから“Ching chong”(中国語の響きを真似た侮蔑表現)と呼ばれたりといったトラブルはあったけれども、ざっと調べた限り、少なくとも公的なメディアで差別的に扱われることはなかったようである。私もヤオの現役期間中はNBAをよく見ていたが、その大きな身体ゆえ「ポスタライズ」のネタにされることはしばしばだったが、人種がどう、という話ではなかった。おそらく、ドラフト全体1位であり、実力としてもその評価に見合う活躍をしていたこと、さらには莫大な「チャイナマネー」も背景にあっただろう。

NBAにおいてこれまでもっともアジア人差別に遭ってきたのは、台湾系アメリカ人のジェレミー・リンではないかと思う。なにしろ、先日アジア人差別への反対を表明したESPNの記事において、明確な人種差別を受けたこともあるのだから。

ジェレミー・リンが9個のターンオーバー(持っていたボールを相手に奪われるなどして攻撃権をなくすこと。リンのポジションの平均は3~4程度。10近くなると戦犯扱いされる)を犯し、それが敗戦につながったことを揶揄する記事の見出しを“Chink in the armor”としたのだ。このchinkとは通常「隙間」のことで、鎧の隙間、すなわち「アキレス腱」と似たような意味を持つ言葉である。ところが、chinkは同時に中国人に対する蔑称としても使われる。蔑称とイディオムをかけて、「中国系の雑魚が戦犯となって負けた」感を強めているわけである。記事は当然削除されたが、以下のwikiに当時のサムネや成り行きが掲載されている。

さらに、リンに対する審判のジャッジが厳しいということも、一部で指摘され続けてきた。NBAはスター選手に対しての笛が甘く、ルーキーや若い海外選手に対しては判定が辛くなる、という傾向があるが、リンに対しては特にそれが強かった印象は私も持っている。私が好きだったコービーが、リンに対して激しいファウルをしたにもかかわらず、フレグラント(悪質・故意のファウル。通常よりペナルティが重い)を吹かれなかったことをよく覚えているのだ。

リンに対するファウルがどれほど見過ごされてきたかは、以下の動画で見ることができる。

その他、選手個人からの差別的な攻撃は枚挙にいとまがない。先に挙げたケニョン・マーティンも、リンがドレッドヘアにしたことに対して以下のような発言をしている。

ざっくりと、「あいつが『リン』って名前だって、いちいち教えなきゃいけねぇのか?あんなクソみてぇなもん頭に載っけてよ、誰か教えてやれよ、『お前の名前はリンなんだぜ』ってさ」といった感じである。黒人文化に気安く入ってくるなというメッセージとともに、「リン」という中華系の姓に対する明確な侮蔑が見て取れる。

おそらくこの手の批判に対して、リンはもはや慣れっこだったのだろう。マーティンのディスに対して、一枚も二枚も上手の「神対応」を見せる。

「ワイの髪型気にいらんのは全然ええけどな、ワイがドレッドしとるように、君も漢字のタトゥー掘っとるやんな、それってでもリスペクトやん?こういうの、マイノリティとして社会に影響与えてくために大事やと思うんや」

そのあとの「若い頃君のポスター部屋に貼っとったねん」も含め、100点である。なんかもう涙が出そうなレベルである。

さて、感嘆してどう論を展開していくかわからなくなってしまった。ともあれ、リンがこのように対応できたことと、アジア人差別が根深く残っていることとはまた別の話である。とりあえず長くなったし、リンのリアクションが見事だったので、アジア人差別の問題についてはまた後日深掘りしていきたい。

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