ぼくは世界からきらわれてしまいたい #44
ホームを通過した特急電車の風圧に、ぼくは現実的な自身の肉体を思い出した。それは脆弱で、八つ裂きにされるのがこの身であっても、じっさい同じことなのだと思った。けれどもそれは現実となることがなく、胎児は現実に刻まれていく。そこにはなにも、必然的なものがないように思われた。
物体と物体が偶然衝突することで、それらを構成していたものが分解され飛散し、それで済んでしまえばいいのに、そこには意味が加わって、人々は像へと収められていく。
事物のうちにぼくらは、どうやって可能性を読み取っているのだろう。現象のうちにぼくらは、どうして疚しさを感じるのだろう。意志のあいだで、物体のような作用と反作用が、単純なかたちで生じることがないのはなぜだろうか。
顕微鏡でアメーバの蠢きを眺める研究者のような世界の観察者にとって、それはあるいは万華鏡のようにパターン化された動きなのだろうか。ぼくにとってはそれは、並存の地平を覆う、不規則にざらついた、尖った罠だ。
意味に満ちた世界の、鋭利に突き出した諸々の角、いまぼくの子どもがそれに貫かれ、標本となろうとしている。そういう思いに打たれ、ぼくは病院に向かって引き返した。ぼくの致命的な部分を狙う一撃、そういう切羽詰まったものへの回避の動きとして、きわめて反射的にぼくは動いていた。
病んだ肉体が自らを気遣う動き、それらが集合的に、間延びした時間を作り出すなか、ぼくは唯一、肉体の直接的な運動に身をまかせた荒々しい速度でもって、産婦人科の受付へと走った。
待合の席を見渡したがマリの姿はなかった。その場に満ちる不安、自分のものではない肉体についての鬱積した不安、そういうものが、それを共有しえない者への憎しみのまなざしとなってぼくに浴びせられた。あらゆる非難に開かれた自身の肉体を感じながら、ぼくは受付のカウンターの前に立った。
受付の女は、女の分かちえないあらゆる痛みの門番にふさわしい厳しさを、ぼくに対して浮かべていた。
「すいません、マリは、ナカハラマリさんはどこにいますか」
「そのような情報についてはお答えできません」
女性の被虐の歴史、その遺産が、ぼくの前に閉ざされていると思った。
「ぼくの子どもなんです、マリと、ぼくの」
「お答えできません。患者さまの迷惑となりますので、お引き取り願えますか」
子に対して自らを疎外することで自己保身を図ってきた男たちを、ぼくは嘆かわしく思い、同時に例外ではなくむしろその範型として、その系列のうちに書き込まれていく自分自身を思い、ぼくは蒸発させる熱を顔の表面に感じた。
マリが股を広げて受けている処置――それはひとつの儀式に属するものだ、女性器にまつわる悲愴と苦痛、胎児の現実的な肉の重み……それらは女たちのなかで閉ざされたまま、共有され循環する……肉を意味へと浄化する白装束の輪のなかに、マリもまた入っていくのだ。それは取り返しのつかないかたちで、彼女とぼくを分かつ儀式にちがいなかった。
薄氷の下に共存の次元がぽっかり口を開けている、そういう地平に生きていることで、女たちが常に抱える事故のリスク、そういうものに対する防護柵が、ぼくの侵入を固く阻んでいた。その柵は悠久の時を重ねた意味によって編み込まれている。それを必要とさせた、女たちを危ぶませる因子が、ぼくのうちに固く根を張っている。
明るい像への耐性と適合を、女たちが確かめなければならないのは当然だった。厳正な基準でもって見定めるのでなければ、意味の網を引きちぎるほど重たい肉を、女たちは引き受けなくてはならない……回収しえない負い目は、彼女自身の像を、存立が危ぶまれるほどに変形しつくしてしまうだろう。
すべてこれが原因だ……ぼくは人を辟易させる父の特性が、自身のうちに宿りつつあることに気付いた少年の絶望に囚われていた。それがむしろぼくのうちで、最も強固なぼくの因子であることに、ぼくは毛虫に生まれたもどかしさを感じた。原罪というのはこういうもどかしさのことを言うにちがいないと思った。
女に対して関わろうとする一切の所作が、その因子の発現であるような気がして、ぼくはもういっそ動かぬ像であるか、臓物を除去しきった人形であるか、そのどちらかでいたいと思った。ぼくは手をのばすことができない、誰かの助けとなることはおろか、誰かの敵にすら、なることができない……
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