「エモい」についての覚書

ぼくは「エモい」という言葉が好きな方の人間である。これはよくないことだと思っている。なぜかはよくわからない。「エモい」に対しては、割と態度がはっきり分かれるように思えるが、ぼくは「エモい否定派」の方がなんとなく正しいのだと思っている。

「エモい」という単語が一体何であるのかは、いずれ本腰を入れて書かなければならないと思っているが、とりあえずここでは今のところ抱いている雑感を記録しておくことにしたい。箇条書き的に論点を見出しとして設定していき、それに説明を加えていく。思いつきなので根拠はない。

「エモい」は現状肯定的である

エモい表現、エモい作品は、誰のことも傷つけない。なんとなく、いい感じなのだ。受け取る側に、変化の契機を与えない。変化できるような感覚だけを与える。自己啓発本のように「後味のよさ」だけを残していく。

「エモい」は何も言っていない

共感のためだけの言葉である。「○○はエモい」という言明は、自身がそれに心を揺さぶられた、という事実を提示しているだけで、それの何がよかったのか、どのように感動したのかは、多くの場合語られない。「ヤバい」と同様、あえて具体性を欠かせることで共感の地平を開いていく類いの言葉である。

「エモい」は消費過程において生じる感覚である

これはたぶん決定的なポイントだ。エモいは資本主義と密接な関わりがある。労働と消費の循環を再生産する構造のなかから、「エモい」は生じ、またその循環に帰っていく。「ウケる」と同様、搾取構造における「気晴らし」の一種として、それは作用しうる。

そんなところだ。後々追記するかもしれないし、新しい形で書くかもしれない。ともかく、「エモい」に対しては、何かしら態度を表明しておかなければならない気がするのである。

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