息子と名前を取り替えつつあるぼく

ぼくは息子を「ウーレイ」と呼んでいる。新生児の時の泣き声がそのように聞こえたからだ。この話は以前にも書いた。

生後8ヶ月が経ち、彼が「ウーレイ」という泣き声を発することはなくなっているのだけれども、ぼくは相変わらず彼を「ウーレイ」と呼び続けている。

しかし、これはどうもよくないことらしい。8ヶ月にもなれば赤ん坊は単語というものを認識しているそうだ。ちなみに、今井むつみ・針生悦子の『言葉をおぼえるしくみ』によると、聞き覚えのある単語に対して有意な反応の差が見られるようになるのは7ヶ月あたりからのことが多いらしい。この本は言語の習得過程を実証的に理論立てていてお勧めである。名詞と動詞のカテゴリーがどのように形成されるか、とか興味深い観点がてんこ盛りだ。

さておき、ぼくの子どもも特定の単語を認識しはじめている様子である。お気に入りの絵本「だるまさん」シリーズ(かがくい ひろし作)を読む際に、「だるまさん読もうか」と言うだけで、絵本が置いてある方に手を伸ばす。というかお気に入りの体験と結びついた単語(「だるまさん」「トーマス」「散歩」など)は、音を聞いただけで明らかにテンションが上がっている。

さて、順調に『言葉をおぼえるしくみ』に即した成長過程を辿っている我が子なのだが、問題は「ウーレイ」である。当然、彼に対してこの単語を発するのは世界でぼくしかいない。そして、彼に対してぼくが最も多く発した単語は「ウーレイ」である。彼の中で、ぼくの存在と「ウーレイ」という単語が固く結びついていることは想像に難くない。

これはおそらく、子どもの成長を先走って解釈してしまう親バカムーブなのだろうけれども、ぼくが別の空間から現れた際、彼は最近「ウエー」という言葉をぼくに向けて発するようになった。ぼくがいない時には発さない音だという。ぼくの存在を、「ウエー」として認識しているのかもしれない。

つまるところぼくは、息子を「ウーレイ」と呼んでいたつもりが、ぼく自身を「ウーレイ」として彼に印象づけてしまっていたわけである。ウーレイとはぼく自身だったのだ。

どうしたものだろうか。彼が一番最初に発する単語が「パパ」でも「ママ」でもなく「ウーレイ」だったとしたら。その可能性はそれなりに高そうだ。その場合、ぼくは責任を取って「ウーレイ」として生きていかなければならないだろう。それもいいような気もしている。


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