ぼくは世界からきらわれてしまいたい #3

ロケ地は恵比寿の商業施設だった。中庭になっている石畳の広場で、カメラマンや制作陣は先に到着していて、機材を整えていた。その近くで現場監督が、場馴れした様子の若い女と親しげに話している。
ぼくに気付くと、監督が女を促しぼくのほうに寄ってきた。

「午後は彼女との撮影だから」

「ハルです、よろしく」


身体に比して異様に小さな顔は、けれども鋭い輪郭で空間を切り裂くように、彼女の存在に確からしさを与えていた。雑誌で何度か見たことのあるはずの顔だった。けれども記憶のなかの静止画と、目の前の女の、ひとつの人格としての表情とのあいだには、うすぼけた断層みたいなズレがあった。

「ヤマシタです、よろしく」

「緊張してる?あんまり撮影慣れてないかな?」

そう言う彼女のまなざしの奥に、ぼくを測定する正確なレンズがあるように思えた。ぼくはそのレンズの中に、自分が粗悪な垢人形として映り込んでいる気がした。同時にその像が、このわずかな瞬間をもって固定され、金輪際変更することのできないものとなったことを、彼女の嘲りの混じった表情のうちに直感した。

硬直するぼくに、彼女は反応を促すように首をかしげた。首から肩にかけての皮膚がすこし伸びて、なめらかな曲線のうちには弾力を感じさせるみずみずしさがあった。その角度は肉体の美しい面を強調するため計算されたものであるように思え、ぼくはなんだか小馬鹿にされているように感じる。その角度の狂いのなさが、女の美意識の狂いのなさをそっくり反映しながら、ぼくを狂いのないひとつの価値のうちに押し込めるように感じたのだった。

バスのなかでの怨恨が、そっくり彼女に燃えうつっていくのを感じながら、ぼくは粗を探すように彼女を眺めた。口元から覗く歯が、奥の暗い穴に不安定に浮かんでいることに気付く。この女はハンバーグを食べるだろうと思う。ぼくは自分の額がいやらしく脂で照り輝いているのを感じた。女の鼻元に微かに吹き溜まったようになっているファンデーションの粉を、ぼくは陰気な目で眺めて愉快な気分になった。

「お弁当何でしたか?」

表出した自身の言葉に不気味な響きを感じる。ぼくは自分が、彼女の内臓について考えていることに気付いた。暗い欲望が隠し切れずに漏出したという感じがして、ぼくは滅入った。女はそぐわぬ響きを遮断するように口元をすこし強張らせたあと、わずかに浮かんだ嫌悪の表情をリセットするように、意識の行きわたった口角でもって、整然とした笑顔を浮かべた。あぁ、あの、モデルの、ハルだ。ぼくはそこではじめて記憶と目の前の存在を一致させた。

「食べてきたから、今日は」

美しい声でそう言う彼女の口元は、胃に収められた内容物との連関を断ち切っているように見えた。同時にぼくは胃の中のハンバーグについて、ひどく恥じ入るような感覚を抱き、続く言葉を見出せなくなってしまった。

噛み合わない会話の調子に見かねて、監督が撮影の話をしはじめ、ぼくはハルが自覚的なキャリアウーマンのように相槌を打つのを横目に眺めた。彼女の肉から生じる空気のふるえを、ぼくは皮膚に感じようとするのだけれど、声は単なる記号となって意味だけをぼくの脳に刻みこんだ。ぼくらはカップルになって、この施設で仲睦まじくデートをするとのことだった。

撮影が始まると、すぐさまハルはぼくとの物理的な距離を縮めて微笑みを浮かべた。眼球はたしかにぼくの方を向いているのだけれども、彼女の目はなにひとつぼくに訴えかけることなく、ひたすらにカメラを指向していた。内容の伴わないガラスのような眼球に、腹のなかのハンバーグからむくりと立ち込めてくる肉欲が、醜く映り込んでしまうのではないかと思われた。

ぼくはどうにか、網膜から押し寄せてくるものを遮断しようとつとめるのだけれども、意識するほどにハルの唇が、異様な肉の物質性をもって、ぼくの精神の古いゴム質の部分を鈍く震わせた。計算された口角へと操作される二つの肉のふくらみは、精巧なラブドールのように呪物的に、物質への執着をぼくのうちに生じさせた。

これはあやうい昂ぶりだ、とぼくは思った。空虚になった眼球が、肉そのものの表情を浮かべ、ぼくの暗い欲動を刺激してくる。けれどもそれはじっさい、ぼくに対する否定的評価にみちたまなざしを覆う、縫合痕だらけの肉にちがいなかった。ぼくの欲動をつぶさにモニターする器官が、ガラス玉の内側に据え付けられているように感じられる。

ペースの定まらないままぼくは関節を動かしていく、いっぽう目の前のハルはぼくの知らないうちに、カメラマンとのひそかな合意に達してシャッターと身体の動きの拍を合わせている。彼女は人形のように表情を固定させたまま、シャッターからの電気信号に感応しているみたいに身体の角度を変えていく。

人間の動きとは程遠いその動きは、彼女の人格をみじんも漏出させることなく閉ざされていて、ただぼくの肉欲だけが、事物からなる空間のうちで醜く滲んでいく。読み取ることのできない彼女の目、その奥に、想定しうる限りの評価を反映した無数の目が存在しているような気がする。それはカメラの奥に控えているスタッフ陣の、ハルと不釣り合いなモデルに失望する目であり、雑誌を見る者の、素人のようなぼくの表情に白けきった目であり、あるいは女たちの、リードできない男を切り捨てる目でもあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?