ぼくは世界からきらわれてしまいたい #29

夢でぼくは無のなかを漂っていた。無にはイスがひとつ備え付けられていた。当然無なので形として認識することはできないけれども、たしかにぼくはそこにイスがあることを確信しきっていて、そこに腰をかけた。

ぼくの尻はいかなる板にも受け止められることなく、そのままぼくは無限に落下しているのだった。「無なのだから、落下も静止も同じじゃないか」という声が聞こえて、ぼくはコペルニクス的転回だ、と感銘を受けて、声の主の毛髪は優雅にカールしているにちがいないと思った。

落下の感覚が消失すると同時に、ぼくは自身がなにか液体に浮いているという感覚をもった。視界の果てにはたしかに、濃さのわずかに異なるふたつの黒を、まっすぐに区切る水平線が伸びていた。ぼくは真っ暗な海に浮かんでいる、と存在しないアゴひげを撫でながらぼくは感心して呟いた。

水平線が不規則に揺れ、波が立っていることが窺い知れた。波はしだいに明確な運動のかたちを示し、ぼくはその脈々とした動きを満足して眺めていた。

ところが波のうちに、ぼくがのかたちを象ろうとしたその直後、海には無数のが大量死したクラゲみたいに漂っていた。ぼくはそれが自身に危害を加えうるものであることを直感した。

目を凝らすと、は波に踊る尻になった。ぼくは安堵してひとつの尻に近づいた。けれどもあと二メートルほどのところでぼくは硬直した。尻肉の両側に、眼球がひとつずつ備わってぼくを凝視しているのだ。見渡すと無数の尻がぼくを取り囲んで、眼球でぼくを殺そうとしているのだった。

突然ぼくは自分の身体が、肉を削げ落とした骨、修正しえないほど湾曲した骨になっていることを見出した。目がなくては見ることができない、という二度目のコペルニクス的転回をもって、ぼくの視界は閉ざされた。

ただ見られている可能性へと、暴力的に開かれてしまっている、そういう意識だけがいつまでも残っていた。

はっきりと肉体が目覚めたあとも、その意識は膜となってぼくの脳を包んでいた。アパートのドアを開けようとした瞬間、殺人的な眼球が外に待ち受けているのではないかという慄きがぼくを硬直させた。その観念はそのまま、ぼくの脳と頭蓋骨との隙間に、硬化したガムのようにこびりつき、内側から溶解性の液体を漏らしつづけているようだった。

ぼくは駅の構内を俯いたまま早足に歩いた。自らの背丈が鬱陶しく、老人みたいに背を折りぼくは歩いていた。切り裂くように狭い視界がコマ送りとなって移り変わった。

ふいに視界が黒いもので埋められ、胸に強い衝撃が伝わった。「ッテ!」と攻撃的な男の声がして、振り返るとスーツ姿の男がよろめいていた。立ち直りざま、通過した獲物に気付いた獣の勢いで旋回してぼくを睨みつけ、高らかに舌打ちした。

「どこ見てんだよ」

そう言って、背中に威嚇的な熱を浮かび上がらせながら男は去っていった。やってしまった、とぼくは思った。それは昨日の衝突とは明らかに性質の異なるものだった。弁明しうるなにものも、ぼくのうちには用意されていなかった。ぼくは自分のなかの何か重要な肉片が、そこに磔にされたまま取り残されてしまったように感じながら、再び盗人のようにその場をあとにした。

出勤し持ち場についたあとも、欠損の感覚はぼくのうちに残りつづけた。しかしそれが失われていることによって、ぼくの身体は背中のTに対して従順であるような気がした。男は、ぼくの存在の濃度を薄く、たよりなく黄色く濁る気体のようにしたのだ。


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