ぼくは世界からきらわれてしまいたい #31
マリを待つあいだ、ぼくは街で慈善行為を行うことに決めた。けれども肉体の衝突というのでは芸がないように思えた。さらに人々の準拠する道交法に照らした場合、互いが動いているなかでの衝突というのは双方に責任が生じうることも考慮せねばならない。衝突された側の人間にも、意識の隅にほの暗い疚しさがともる、そういうことも大いに考えられる。
ぼくはホームレスを思い、いかにしてあの無防備さをぼくのうちから引き出すことができるのかを思案した。結果としてぼくはコンビニに入り、タバコとライターを購入した。
目抜き通りでぼくはポケットからタバコを取り出し、封を開けた。その仕草がすでに往来に馴染まぬ動作であることを感じ、ぼくの手は緊張にふるえていた。人々の否定性の受け皿になるのだ。ぼくは自分を奮い立たせた。彼らは並存を許すことのできない相手を、絶望的に求めている。ぼくの存在意義、それは存在しないことを望まれるということ以外にないはずなのだ。
ぼくはタバコに火をつけた。ぼくの手によって立ち込めていく、むせ返らせる毒。自らの排泄物の臭気に鈍感であり続ける牛のように、ぼくはそこに鷹揚と立ち、煙を吐いた。純朴なまでの、度外れな罪悪感の欠如、そういうものを表現すべく、痴呆みたいにぼくは口を開けていた。
いっぽう煙は自身の存在を恥じるみたいに、多くの身体を避けながら形態をゆらめかせていた。煙自身の願いとは裏腹に、その粒子が鼻腔から生じさせる人々の苛立ちの閃光を、ぼくはつぶさに感じ取ることができた。
けれどもあからさまな憎悪をぼくに向けてくる人間は、ぼくが期待したよりも遥かに少なかった。ほとんどの場合彼らは舌打ちどころかぼくを睨むことすらせず、足早にぼくのもとを立ち去ってしまうのだ。
不快さに彼らの意識が一瞬囚われているのは確かだった、けれどもなお彼らは、この街の秩序だって流れる動脈の一部であることを止めようとはしなかった。彼らが人間的意味を纏ったまま、たんに不快な感情を蓄積させていくことに対してぼくは落胆し、タバコを消した。と、地面で吸い殻を踏みにじる自身の動作に、罪の意識が、遠い上空の事物の影みたいにうっすらと映り込んでいることに気付いた。
「ねぇ、それ、拾いましょうよ」
振り向くと小ぎれいなスーツ姿の男が立っていた。暖色の繊細な色遣いがなされたネクタイと同じ柔和さが、彼の表情から見て取れた。
「ぼくも喫煙者ですけど、そういうのは、自分の首を絞めることになる」
彼はこの街の代表者だ、とぼくは思った。作為的な、迎え入れるような表情に、感情を理性の煙幕に覆った物言い。この街では、並存の次元に降りていく通路がかたく閉ざされている……それでいて彼の、彼らの、吸い殻を拾うぼくを見る目はどのようであるだろう。収監されていく凶悪犯を見る目? 取り押さえられた痴漢を見る目? 異常者が像へと回収されていくその手前に、激しい嫌悪、並存を拒否する存在の身震いがある、それは対象が意味の枠に嵌められるやいなや、嵐のように治まって姿を隠してしまう。
顔を上げると快の形跡を感じさせる不気味な笑顔があった。その表情を掻き消そうという衝動に、ぼくは吸い殻を拾う手を止め、男の頼もしい肩に自分の肩を強くぶつけながら走り去ろうとした。
「おい、コラ」
アイドルの地声を聞いたような陰気な悦楽が生じて、ぼくは足を止めた。自身の表情が期待に緩んでいるのを感じる――そう、きみは、ぼくとの並存を許容することができない。
荒涼とした渦が腹のなかに立ち込め、踏みにじるような男の視線に、それはみるみる勢いを強めて焦燥の粒子を巻き上げ散乱させる。ぼくは男から投げかけられる何かを期待している。
男は地上の獲物を掠めとる猛禽類のような手つきで吸い殻を拾いあげ、ぼくに近づいてくる。腹の内側が砂嵐で荒く擦りおろされたように熱く、渇望に焼けている。男が吸い殻を投げつけるべく構えたその瞬間、男の表情から突然温度が失われたようになって、活動限界を迎えた人型兵器のごとく、腕がだらりと垂れてしまった。
ぼくは自分の顔が失意に萎んでいくのを感じ、同時にそれまでこの顔が、期待に醜く膨張していたことを知った。その膨張の具合が、男の熱を冷ましてしまったにちがいなかった。怒鳴りちらした相手が異なる言語圏の人間であることに気付いたみたいに、彼は情動を風船みたいに萎めてしまった。
男は持て余した吸い殻に目を落とし何かを思案したあと、ゆっくりぼくに近づき餞別を渡すようにしてぼくの胸ポケットにそれを忍ばせた。落伍者に対する寛容。その下地に、世界を階層化する残酷な線があった。ともあれぼくは彼によって、同じ世界での並存を拒絶された、というよりも諦められたわけだった。
彼にとってぼくの行為は慈善たりえただろうか? 当然そうではなかった。ぼくは一方的な加害者たりうるだけの理性を持ちあわせていないと見做されたのであり、それは慈善としての条件を満たさないのだった。けれども並存を諦められたという事実、その次元が顔をのぞかせたという事態に、ぼくは渦が静かに、秘めたエネルギーによって内側からにぶい光を放つのを感じた。
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