高橋源一郎が示した「憎悪の連鎖を止めるヒント」

フリーライターとしてやっていくにはともあれ名前を売らねばならんと、年明けからツイッターへの投稿を増やしている。とくになにかがバズるわけでもなく、フォロワーは増えない。

これまであんまり著名人のツイートを気にしたことがなかったのだけど、ともあれ参考にしてみようとジャーナリズム系や人文系、リベラルや保守、色々とアカウントをフォローしてみることにした。

結果としてタイムラインは地獄と化している。世の中はこんなにも対立が存在していたのかと驚愕するとともに、対立構造がもはや整理しえない状況にまで拗れてしまっていることに狼狽する始末である。

ツイッターが世の中をすべて映し出しているわけではないけれども、「どうしてこうなった」感は結構多くの人が感じていることなのではないか。陰謀論やらポリコレ棒を用いた言葉狩り、というところまでは「まぁそんなんもおるやろ」と想像の範疇なのだけれども、とくにネトウヨってわけでもないアカウントがポリコレ的言説への逆張りみたいなことをはじめて結構なカオスである。

地獄なのはこれが「便所の落書き」ではないからだ。2ちゃんとは違って、固定のアカウントがあることで一定の権威性を帯びるし、サジェスト機能で自分に近い界隈の情報が次々に湧いてくるから、なんかもう信じ切っちゃうわけである。対立する立場からの主張とか耳に入らないのである。

ぼくが思い出したのは2年くらい前に、杉田水脈が『新潮45』に寄稿したLGBT批判に端を発する騒動である。LGBTを「生産性がない」と言い放ったその文章は瞬く間に炎上したが、『新潮45』はそれらの批判に対する応答として「杉田論文」を擁護する特集を組んだ。

その特集において批判の的となったのが、小川榮太郎の論文であり、結果として『新潮45』は廃刊に追い込まれることとなった。小川の文章は到底論文と呼べるようなものではなく、LGBTと痴漢を同列に語るなど論理構造も倫理性も完全に破綻していた。

前置きが長くなってしまったが、ぼくが思い出しているのは、この小川の論文を批判するにあたり、小川の著作をすべて自費で購入し、目を通してから記事を書いたという高橋源一郎の姿勢である。以下の記事だ。

「文藝評論家」小川榮太郎氏の 全著作を読んでおれは泣いた:考える人

高橋源一郎はどれだけ相手が気に入らない人間であっても、「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」ことを欠かさないという。相手を理解するという、最低限のリスペクトとしてそれを慣行しているそうだ。

上の記事そのものも極めて読み応えのあるものなのだが、とりわけ印象的なのが次の部分である。

書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。おれは、ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒントはそこにあるのではないかと思っているが、まあ、その件は、いまはおいておこう。

結果として、高橋源一郎は小川榮太郎に対して一種のシンパシーを感じてしまう。かつて自身と同じような文学少年であったはずの小川が、執筆者として辿った運命により決定的な自己分裂に陥ってしまったことを嘆き、「おれは、彼らを、簡単に責めることができないのである」と締めるのである。

上に引いた文章で、高橋源一郎は「その件は、いまはおいておこう」と言っているけれども、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」はもはやこの記事を通して決定的に示されていると言っていい。

単純に、相手の主張を知る、というのではない。別にツイッター上で批判しようとするアカウントの全投稿を見返せ、というわけでは当然ないのである。重要なのは「顔の刻印」だ。「それを書いているのが誰なのか」を知ること、知ろうとすることである。

当然これは理想論である。けれども、相手の主張が支離滅裂だと断じる前に、「なんでこの人はこの考えに至ったのか」と一瞬でも思いを巡らすことには何かしら意味がある。記号的な、脊髄反射のやりとりの中に、思考の負荷がかかるのである。その相手が誰であっても、いま言葉を投げかけようとしている向こう側には常に、負荷とならなくてはいけない「存在の重み」があるはずなのだ。

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