ぼくは世界からきらわれてしまいたい #7

三日後、ぼくは銀座のブティックに出勤した。

指定されたとおりにビル横の狭い通路からインターホンを押すと、若い女の声が返ってきた。事務所と名前を告げると、女は肉のこわばりを感じさせる、硬く控えめな調子で少し待つよう伝えてきた。ドアから覗くその女の顔に期待していると、実際に現れたのは青く粉っぽい瞼をした、目尻に皺の目立つ女だった。女の品定めするような鋭い眼光に、ぼくは若い女を期待して昂っていた自身の心を見透かされているような気がして委縮した。

「入りなさい」

女の調子のうちにすでに前提となっている主従関係を感じつつ、ぼくは中に入った。伝票の貼られた段ボールが雑然と積まれているなかを、女は熟練した余韻のある身のこなしで進み、バックヤードの奥の暗い階段を、歳に不相応な軽やかさで昇っていった。女の肌に馴染みきっていない香水の揮発していくにおいが、何か不快な、ぼくと女との間に生じている斥力のようなものを感じさせた。

女は5階建てビルの屋上階まで昇り、外に通じるドア手前の踊り場で立ち止まった。女の上昇した体温によって、光沢を主張するような香りが、いっそう強く鼻腔を攻撃してくる。

「着替えや休憩は、ここでして頂戴」

小さなベッドほどもないスペースの隅にラックが置かれ、スーツが10着ほど並んでいる。

「その中からサイズの合うものを着て。仕事が終わったら、元に戻して、ちゃんとスラックスの折り目をつけるのよ。モデルさんなら、服の扱いもしっかりなさいね」

その踊り場には照明がなかった。屋上に出るドアに備えられた小さな窓から、かすかに差してくる外の光をたよりに、スーツを物色するが、色合いがつかめない。ぼくの色彩感覚などによっては動かしようのない形式が、押しつけがましくぼくの色彩を規定しようとしてくる。

「着替えたら、一階まで降りてきて。営業時間外はエレベーターでいいけれど、開店中は階段を使って。お客様と鉢合わせたらいけないから」

ぼくはエレベーターで客と鉢合わせる自分を想像した。たしかにそれは、ある疚しさを感じさせた。客の精神世界にヒビを入れるということを、なにより避けなければならないというわけだ。

着替えて一階に降りると、売り場の中央で店員たちが青瞼の女を中心に集まり、事務的なことがらを確認していた。女たちはぼくの存在に気も留めず、アオマブタに真剣なまなざしを注ぎ続けていた。六人いる店員はすべて女で、一人の若い女を除いては、みな四、五十代に見えた。

女たちは黒い滑らかな生地のパンツスーツを身に着け、その下の肉体を衣服の示す職と役割のうちに溶け込ませ隠していたが、ひとり若い女の身体のラインは、内側から充実していく肉のふくらみを感じさせた。ぼくは先のインターホンの声を思い出し、それがその女の垂れた眉や、目元を覆う薄く色味のないメイクと、いかにも釣り合っていると思い満足した。アオマブタを熱心に見上げる目元の不自然な緊張は、その女がもともと伏し目がちであることを思わせた。

打ち合わせが終わると女たちは散り散りに開店の準備に取り掛かった。黒い女たちの隙のない手つきと足取りは、店内に踊るパステルカラーのなか、ぼくにある種の不安を抱かせた。装飾と作業、その間には確かな事物の硬さのようなものがあった。裏切ることのないクリアな角度で区切られた空間にぼくは立たされていた。

近づいてきた女の青い瞼は照明を反射し、その粉っぽさを隠していた。

「こっちに来て。あなたには、このあたりに立っていてもらいます。モデルさんだからわかっていると思うけど、ここに立つ以上は、このお店の看板になってもらうわけだから。しっかり表情作って、プロとしてやって頂戴ね」

店内の入り口付近にぼくを立たせてそう早口で捲し立てると、アオマブタは業務に戻っていった。外側のシャッターは閉まったままで、そのうす暗い灰色の向こうに広がっている世界の運動が、開かれた瞬間ぼくのうちになだれ込んでくることを思い、ぼくは身構え、ネクタイを直した。ぼくは自分が世界を迎えるためには、あるいは世界から迎えられるためには、あまりに無防備であると感じた。

視界の端から若い女がせわしない鳩のように入ってきて、シャッターの前に腰を丸めて座った。ドアの下方の鍵を開けようとする動作は、アオマブタ達の洗練された、隙のない動きとは異なっていて、知恵の輪を弄る猿のように、筋肉と運動の不釣り合いな感じにみちていた。彼女は肉体を、完成された人間の枠に嵌めることに習熟していないのだった。それはぼくも同じで、彼女がぎこちなく鍵を開け、いかにも伝導率の悪そうな動きでシャッターを上げるのを見ながら、ぼくは自分の背筋が垂直ではないことをひどく恥じるような気になっていた。

その負い目は、シャッターとともに開かれた光景の色彩とスピードからぼくを取り残した。街をゆく人たちはしっかりと人間の顔を持っていた。建物も車も、事物は装飾され光沢を放ち、人間は自分たちが人間であることを、たのもしく信じ切っていた。ぼくのブレた身体の軸が、この街にあって侮蔑と嘲笑の対象であるように思えて、ぼくはどこか地下の汚れた管を通って排出されてしまいたいと思う。けれどもぼくは立ってしまっていた。まなざし、評価、価値、そういうものの、クリアカットな空間のまっただなかに。関節一本一本のゆがみまで入念に値踏みされそうな、この空間の明け透きに、背筋は曲がったまま緊張して動かなくなる。背後に想定される女たちの視線、男を任意の湾曲率と倍率のうちに映し出すレンズよって、ぼくはナメクジみたいに縮み上がって瓶詰めされる。小心者、不適格者、そういうラベルが雑に貼られて、埃にまみれた棚に並べられるにちがいない……

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