ぼくは世界からきらわれてしまいたい #30

ぼくは失われたものが何であるのかを考えた。あの男のまなざしはぼくにいかなる意味を伝えようとしていただろう?

それはいま目の前を流れる無関心の往来のなかから、ときおり川面の反射のように向けられてくる視線のどれとも異なっていたし、背後に感じる女たちの、釣り上げられた魚を計量器に載せるような視線とも異なっていた。それでいてあの責めは、ぼくに謝罪とか金銭とか、そういうものを要求しているわけでもないのだった。

ぼくは男のなかに生じているであろうぼくのイメージについて思案した。死ねよ、という言葉がイメージの全体を上塗りするように、大きく書きなぐった赤い文字で刻まれていた。

彼は世界のうちでぼくとの並存を望んでいない、とぼくは思った。あの瞬間、ぼくらは並存しえない存在となって、消失すべきは端的にぼくの存在だった。その事実はある種の清々しさに似た、荒涼として透明な、か細い渦をぼくのうちに生じさせた。

けれどもいまぼくがここに立っているのはどういうことだろう?ぼくは並存ということについて考えた。往来の人々とぼくとは、同じ世界に並存していないように思えた。女たちはで、ぼくはTに吊られたカカシであって、記号的存在への相互の還元が、アバターのようにぼくらを存在させていて、その限りではぼくらは平和的秩序のうちに共存しているわけだった。

けれども並存というのはそういう秩序の手前にかかわる事柄であるような気がした。見ることと見られることというのも、たしかにひとつの闘争的な関係ではあるのだけれども、それは像をうち立てる意識の硬度に関わる問題だった。いまやほんとうの問題は、像の形成よりもさらに手前の次元にあるように思われるのだった。

以前と同じホームレスが、店の前に通りかかった。彼のうちにぼくは、なにか問題の根幹にかかわるものが隠されていると直感した。彼は並存の次元にいる、とぼくは考えたのだった。

自身のうちの荒涼とした透明なもの、それに対して彼はなんと潔くあることだろう。あらゆる否定、並存の拒否に対して彼は開かれていた。イエスさながら人類の罪を一挙に引き受けようとでもいうように、煤けて判然としない色になったボロ布に身を包み、時間のよどみのうちへとあらゆる嫌悪を吸い込んでいる。その汚れのうちにぼくらの疚しさを紛れ込ませることなく、ぼくらは日常を送ることができるだろうか?

いまやぼくは彼岸に立とうとしている!ぼくは高揚を感じ、肉体の疼きにふるえる。いまや世界にはぽっかりと深淵が口を開け、ぼくはそこへと潜り込むためのハシゴとなることができる。

――今度は物質的な拒絶かい?ほんとうにきみは……

〈良心〉の声は途中で、昼休憩を告げるアオマブタによって遮られた。

ぼくはコンビニのおにぎりの包装を荒々しく剥ぎ取り、直にそれを手に取ると、口内になるだけ多く唾を含ませながらそれに噛りつき、巨人みたいにおおざっぱな咀嚼をした。しかしそれは荒涼とした感じを呼び起こさなかった。

ぼくは不愉快に口の中のものを飲み込み、無感動におにぎりを平らげると、屋上に踏み出した。煤けた灰色の景色は荒涼とした渦にいかにも似合っているように思えた。ふいに感じた尿意が、膀胱から降りてくるのと同じ速度でぼくはペニスを露出し、そのまま尿を放出した。

それは陽気にほとばしる放物線をアスファルトに投げかけ、滝のようなあらぶりをもって打ちつける音とともに、黒々と地面を染めていった。ぼくはいまや世界に陸と海を創造したわけだ、とぼくは満足した。

換気扇から排出される生ぬるく澱んだ空気とともに、アンモニア臭が足元から立ち込めた。ぼくは店の女たちが、ぼくの放尿を見ていればよかったと思った。並存の次元に、ぼくとそれらの女は否応なく立たされるわけだった。想定された女の悲鳴が、ぼくのうちの、ぼくを超えたところで、荒涼とした渦にゆたかな養分をあたえた。

休憩が終わり一階へ降りていく途中にマリと鉢合わせた。

「いま、屋上で小便をしたんだ」

ぼくはホームランを打った少年の誇らしさでマリに伝えた。見開かれたマリの目には様々な情動が整理されないまま浮かんでいた。けれどもその根底に、ぼくの存在そのものに対する怯えがあることを見出しぼくは満足した。それはぼくとの並存そのものを拒絶しなければならないという、彼女の本能に由来する訴えを感じさせた。

「今日、家行っていい?」

硬直するカエルに絡みつく蛇となってぼくはマリの耳元にささやいた。マリはまた、反応する権利を放棄するように俯いた。それを受容と解することに、もはやいかなる躊躇も生じていなかった。

「じゃあ、コンビニで待ってる」

その場をあとにしながら、なにか背後の空間が、マリの形にすっぽりと切り取られているような感じがした。

持ち場について、ぼくは街ゆく人に無差別にタックルを仕掛けることを考えた。それは通り魔的な慈善行為だ、誰もが、並存の次元において完全な落ち度を相手に帰するかたちで、彼を拒絶することを願っているはずだった。

並存の拒絶を正当化するための、〈純度100パーセントの被害者〉としての権利を、記号的な優位性よりもよほど、ぼくたちは求めているのではなかろうか? 並存を拒絶すべき敵、そういうものがないと、閉じ込められた紫色の欲求が化膿して、人をなにかの病に感染させてしまうのではなかろうか。

それは最も優先して満たされなければならない、人間存在の根源的欲求なのではないか。私はあなたとここにいたくないの、出所の知れないその根源的欲求、その底を支える正当な根拠を見つけることは、なにより甘美なよろこびをもたらすはずである。

――きみはいま、快と不快の彼岸に立とうとしている、というわけかい?

――人は何かの負荷を求めている。超克すべき負荷を。けれども多くの人がそれを見出すことができずにいる

――きみは自分がそれに値する人間だと思うのかい

――すくなくとも、ぼくは気付いてしまった。ぼくはこのことに使命を感じているんだ

――きみはそのためには飾られすぎているんじゃないかい?きみは神の子なんかじゃない。しるしを欲しているだけの、ありふれた人間にすぎないだろう

――どうあれぼくは並存の次元にぼくの神を感じる。快と不快が手を取り合っているところに、ぼくは神の発生源を見ている

――しかしその神は実在的かい?

――確信されたものが実在的でないとすれば、ぼくは実在というものに何の価値も見ることはないよ

――なんてことだ!きみはきみの確信によって、実在を作り出そうというわけかい。その傲慢さが、きみを根本で規定しているものだよ

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