ぼくは世界からきらわれてしまいたい #36
帰りの電車でもぼくは行きと全く同じ芸を披露した。
「なー、それな」そう言ったあたりで後ろから肩を叩かれ振り返ると、フクロウのような眼をした、けれども頬のこけた男が切迫したように鼻先に人差し指を押し当てていた。
ぼくは事物を眺める目を繕いながら、「ア?イマデンシャ、エ、ヨクネ?」と続けた。男は目玉をこぼれ落ちるほど広げて、鼻に当てていた手でぼくの腕を掴み、スマホをぼくの耳から引き離した。
「何考えてるんだ、電車のなかだぞ」
すり潰すように眉間に皺をよせて男は言った。膨らむ期待が表情に浮かばないよう、ぼくも彼の顔を真似た。
男はさらなる落ち度を探すように視線をぼくのスマホに落とし、そのまま硬直した。画面は真っ暗だった。男の目玉が抜け落ちて、スマホの画面に跳ね床に転がっていくように感じられた。
「え?通話してたんじゃないのか?」
男は目玉を失ったまま、あたりを見回しはじめた。
「なんだ、誰か、撮ってるんじゃないだろうな?ユーチューバーってやつか?」
なんてことだ、とぼくは絶望した。彼はいまや自身を責められる側として規定してしまった。慈善事業のつもりがこれでは悪質なテロ行為だ。ぼくは彼へとさしのべる言葉を探した。
「ごめんなさい、大丈夫です、ぼくは…」
ぼくは?喉元に、乗客の好奇の視線が集中し、無理やり音を発させようとする。
「ごめんなさい、ほんとに、自分でもよくわからないんです」
言葉とともに、ぼくの魂めいたものが放り出されて、毒の抜かれたフグのように観衆に提供される。彼らはどうそれを味わい、どう批評するだろう? 奇妙で陰気な愉しみに興じる変人として? 現代社会の闇を感じさせる一事例として?
冗談じゃない、求められてるのは、ぼくの物質的存在が許容されるか否か、そういう並存の次元だ、そんなママゴトじみた次元で、ぼくを弄んではいけない……もっと有益な、皺人形としての価値があるはずなのに。
男は気乗りしない柴犬のような表情を浮かべて、ぼくのいなかった世界に帰っていった。
――並存の次元とやらが実在的じゃないことを、そろそろ受け入れたほうがいいんじゃないかい?
――彼らが気付いていないだけさ、覆いを取るのは簡単じゃないよ
――覆い!これが歴史の弊害だ、きみは原初状態というものを勝手に想定して、あげくそこに意味とか価値が、人間的所業の副産物が乗っかってきた、そんな風に考えているんだろう!
――それらが精神に変化をもたらしたのは事実じゃないか
――それがきみの大きな錯誤だ、ともかくそこで存在してしまっているものが実在的なのさ。そこで通用し承認されたものがね。きみはその枠のなかで生じた跳ねっかえりにすぎない。もう勘付いているはずだがね
ぼくはマリのマンションに向かった。彼女は仕事に出ていて、会う予定もなかった。そのままぼくはインターホンの前で、よく磨かれたタイルの上に貼りつくガムように立ちつくした。
ぼくの耳に適した周波数から大きく外れた甲高い声が、いくつか交錯しながら近づいてきて、ぼくの背後で足音とともに止まった。
若い女が三人、不気味なマネキンに驚いたような顔をぼくに向けていたけれども、視線はすぐさま無関心になり、彼女らはそれぞれ横暴な歩行者となって不快な植木みたいにぼくを押しのけインターホンの前に立った。
部屋番号を押したあと向こう側の声とぼくには意味のわからない記号のやりとりをして、彼女らは入場を許可された。三つの∩がぼくを牽制するように揺れながら、ぼくをドアのこちら側に取り残し、オートロックが施錠される音がした。
天井に監視カメラがあった。それは奇形の生物を見る学者の目をして興味深げにぼくを眺めていた。ぼくはその映像が、先の女たちによって鑑賞されているように思えた。
ぼくは標本として磔にされ、つま先の下には何かのプレートが掛かっているのだけれども、それがどんな意味を表示しているのか、ぼくは知ることができない。〈ストーカー〉であるとか〈レイプ魔予備軍〉とか、そのあたりかもしれない。女たちはその表示を見て、それが通報すべき対象であると気づき、突然義憤に駆られはじめる。ぼくはおそろしく思いその場をあとにした。
マンションから離れたあとも、ぼくはそこに自分の分身が残され続けているような感覚に囚われていた。ぼくのかわりに、それが捕らえられ裁きをうけて、修正のきかない、硬く平べったい像のうちに閉じ込められる……
その分身の行く末に、この身に下されえた罰への慄きの裏で、ぼくはなにか因果が収束していくような、胸のすく思いを抱いていた。それが廃オイルのように、固形化されたのち廃棄されること、それは当然なくてはならないことのように思われるのだった。
ぼく自身が、その罰を現実に与えられなければならない――生じた想念が肩にのしかかり、息のつまりが食道の気圧を押し下げて、ぼくの中身がそこへ吸い上げられていく感覚……それはぼくの肉体が、裏側からひっくり返されるイメージを喚起した。裏返ったあと、ぼくの像は影のない、やけに薄っぺらなものとなるように思われた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?