忘れること、待つこと、探すこと――村上春樹とニヒリズム

村上春樹について話した。作品そのものというよりも、「なぜ『ハルキスト』は軽蔑されがちなのか」といった観点からだ。

放送内で、ぼくは「村上春樹の作品は解釈できない」という発言をした。「村上春樹について語るときには、作品そのものについてではなく『村上春樹という現象』について語ることになる」といった話もあった。

なぜ村上春樹の作品そのものについて語ることが難しいのか、その後考えてみたのだけれど、たぶん一つにはテーマが拡散的だからなのだろうな、と思う。テーマが拡散している、というのではない。拡散的であることが一種のテーマになっている、と言えるのかもしれない。

村上春樹作品に通底しているのは(最近のものは読んでいないのでわからないが)、忘却と彷徨のモチーフである。過去の喪失、価値の不在。要するに主人公はフワフワしている。

ニーチェはニヒリズムを定義して「最高諸価値の無価値化」ということを言ったけれども、村上春樹の作品の基調にはニーチェ的な意味でのニヒリズムがある。

「敗戦を契機とする価値体系の崩壊」という前提は、戦後文学のトーンを何らかの仕方で規定し続け、雑な言い方をすれば「戦後ニヒリズム」への態度決定が、不可避的に文学上のテーマとなっていた。作品を一つの建築物にたとえるならば、それを建てる際の土壌的文脈として、天皇や共産主義についての葛藤があったと言っていい。

ところが、村上春樹に至って「価値の不在」は自明の前提条件となり、諸価値の間での葛藤は徹頭徹尾排除されることになる。あれか、これかと主人公は悩んだりしない。最終的にあらゆるものが無価値であると知っているからである。

「価値」は思想や信条のうちに見出されるものではなくなった。敗戦により天皇は神ではなくなって、共産主義も敗北した。ドグマ的なものの一切は「個人の偏向」を示すものに過ぎなくなって、内的規範は空洞化する。すべての価値は、自由な資本の運動のうちにしか認められなくなる。

放送の後半、東浩紀を参照して「資本主義が一定の段階まで成熟した国で村上春樹がブームになる」という現象に触れたけれども、それには上のような事情も関係しているのだろうと思う。最高諸価値に変わり、資本の運動が「何よりも明白な価値」を提示してくる社会、「何を信じようが、結局あらゆるものが資本の運動に還元される社会」において、村上春樹は「刺さる」わけである。

それでも私たちは、何かしら信じうる価値を探さずにはいない。消費社会に漠然と満足しながら、なんとなく何かを待望している。神でもいいし、英雄でもいい。村上春樹の作品においても、主人公が何かよくわからないものを探したり、待ったりする構図が頻出する。

同時に特徴的なのは、村上春樹作品において、主人公がどのような状況に巻き込まれようとも、それが際だった「価値転換」あるいは「価値創造」につながらない点である。作品内で生じるあらゆる出来事は、何やら霧のなかにあるかのように描かれ、重みを感じさせない。まるで忘却されることが決まっている夢のようだ。

村上春樹嫌いで有名なとある批評家が、春樹作品のこういう性質を論って「読む者に危機をもたらさない現状肯定の文学」といったディスを繰り返していた。中田や大丘が言っていた「もどかしさ」も、たぶんこのあたりのことを指摘しているのだろうと思う。

その批評家が言うには、春樹の作品には「外への通路がない」のである。ニヒリズムを受け入れ、なんとなく何かを待望しているけれども、結局それも到来しないことを知っている。キルケゴールが言う「大地震」、ハイデガーが言う「根本経験」みたいな、なにか価値観の決定的な変容をもたらす驚きや動揺は、村上春樹の作品からは得られない、というわけである。

この「通路のなさ」は、00年あたりの「セカイ系」にも見受けられるし、それ以降のライトノベルに通底する「やれやれ感」とも通ずるもののように思われる。さらに、いつも「どこにも行けない」ことで知られる米津玄師をはじめ、ここ20年くらいの間、ある領域における表現活動を規定してきたトーンであるとすら言えるだろう。

その作品において、いちはやく「どこにも行けない」ことを「やれやれ」と諦観ベースで受け入れた村上春樹は、やはり時代の申し子である。

ここまで書いてきて、なんとなく、「ハルキスト」に対する軽蔑は、たぶん「同族嫌悪」的なものなのではないかな、と思いはじめてきた。自分自身、価値の宙づり状態に辟易し、何かを待ったり、探したりしているのだけれども、それが到来しないことも何となくわかっている。村上春樹作品の主人公を、自分自身に重ねることもできる。実際に重ねたのが「ハルキスト」であって、「いや共感したら負けだろ、俺が待っているものは『それ』じゃないんだわ」と拒絶するのがアンチハルキストである。

「ニヒリズムからの脱却」という観点から見て、どちらが充実しているかは言うまでもない。あるいは反対に、どちらがより「ニヒリスト的=村上春樹的か」であるかも自明である。矛盾したような話だが。

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