ぼくは世界からきらわれてしまいたい #40
翌日の朝早く、スマホの震える音に目が覚めた。
画面にはマリの名が表示されていて――ぼくは明るい像がまだ存立しうるかのような、呆けた期待にみちびかれるまま電話に出た。
「署名してほしいんですが」
「署名?」
なにか彼女と契約することがらがあっただろうか? まさか婚姻届ではあるまいし……ぼくの整理が追い付かないことに痺れを切らし、彼女が声を発する。
「同意書、中絶の」
静かに低く響いた声は、カプセル薬みたいに少しの間をおいて、マリの憎悪をぼくに伝えた。明るい像が名残惜しそうに退散していくのを、ぼくは親との離別を止められない子どものように眺めていた。
中絶……ぼくの、あの行為の、もたらした帰結。肉体の交渉から物質的に生じたものが、同じ、肉体の交渉から精神的に生じたものによって、殺されてゆく……
押し黙るぼくの反応を、今度は予想していたみたいに、マリは厳格な調子で「三日後の、九時半。〇〇病院。カウンター前の待合席で」と告げ電話を切った。
ぼくは絶望的に、窓から見える隣の家の、いかにも安価な素材でつくられた瓦屋根をただ網膜に映していた。そのうちにぼくは、自身がその巴瓦に刻まれた、二つの勾玉状の柄が織りなす渦の形状を注視していることに気付いた。
同じ形状が並ぶなか、ぼくはそのひとつのうちに、なにか引き寄せる力、訴えかける力を感じているようなのだった。ぼくはそこに、はっきりと、マリのうちに宿ったぼくの精子の行く末を見ていた。
それは形状としてありふれていた。同じものの、無数のバリエーションのうちのひとつにすぎなかった。けれどもそれは打ち消しようもなくそこに存在してしまっていた。その凡庸さは、ぼくとマリのあいだに生じたものの実在性を、みじんも否定することがなかった。
ありふれた姿、ありふれた像のうちに収まることは、その個体が替えのきかないものであることに対して、なにひとつ傷を与えはしないのだ。
致命的な思い違いに気付いたみたいに、ぼくのうちで急速に回路が繋ぎなおされて、新たなシステムが構築されていくのを感じる。と、マリの像が、繊細な光の筋の重なりに照らされ想起された。
ぼくはマリの皮膚の肌理の、ひとつひとつを愛することができるように思った。それらのうちで脈打つあらゆるものが、ぼくの存在に呼応して、あらたな輝きのうちに自らを示すだろう。
緊密に世界を織りなしていたあらゆる小さなものに対する慈愛めいた感情が、世界の相貌を小鳥の羽毛みたいに柔らかく見せた。小さなものがそれぞれ、ありうることの粒子を内包しながら、世界をありうることの塊として構成していた。
極彩色の閃光がぼくを捕らえて、それはぼくのうちに固着する澱んだものを一挙に消失させるように思われた。更地のなかで、ぼくはいかようにもぼくでありうる、そういう確信がみちた。ぼくはその充溢の感覚に方向づけられたまま、マリに電話をかけ直した。
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