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ヨコハマトリエンナーレ出品作品について

今年、僕も参加させていただいているヨコハマ・トリエンナーレ2020が7月中旬にオープンしました。コロナ・ウィルスの感染拡大防止のための措置を行いながらのオープンなので、完全予約制など、制限のある形ではありますが、多くの方がすでにご覧になっているようです。

僕の作品は父親の絵画、ドローイングやテキスト、そして映像からなっているインスタレーションです。
しかし、僕の作品の映像部分にはまだ、字幕が入っていません。約70分の作品でナレーションの多くは日本語以外なのでこれは耐えられるものではないと思います。それに関して、すでにご覧になってくださったが、ほとんど意味がわからなかったという方もいいらっしゃると思いますのでお詫びをしたいと思っています。
今でも、昼夜をあげてその作業にかかっていまして、もう残すところ最後の10時間ほどまできていますので、近日には全貌が公開されることになると思います。こんな文章なんか書いていないで、その作業を進めたらどうか、というツッコミは正しいのですが、しかし、なんとかこの失態のお詫びをしなければ、という葛藤の末、書くことにしました。
なんとか近々アップデートして字幕の入ったものを納品して差し替えていただこうと思っています。すでにご覧になってしまった方には、個人的になんらかの埋め合わせを考えたいと思っています。

少しだけ言い訳と背景について触れたいと思います。

元々は去年から進めていたプロジェクトが展示予定でした。これは「タコを飼って、しばらく一緒に生活をし、彼らの世界の捉え方について身体的側面から考察をする」というプロジェクトでした。
しかし、春先から世界の状況は一変し、取材の調査旅行からタコを入手できるルートまでもが絶たれてしまったのです。その中、なんとか進めていたのですが、結局は準備していた、水槽やスタジオなどはいつか来るはずのタコを未だに待ち焦がれている日々が続いています。

そして先月初めに、遠隔設営をした直後に、映像作品を仕上げ中に家での事故により左目の角膜を怪我し、数日間、眼を開けられなず、安静を強いられてしまいました。その時、運営側が心配してくださり、オープンまでに字幕が間に合わなくても、最悪の場合大丈夫です、その後、差し替えましょう、とご配慮くださりました。

結局なんとかの映像作品はまとめたものの、現在字幕なしです。

今回の映像作品ではその挫折の過程と、それに伴う心境を語る映像作品にすることになりました。敗北宣言のようなものかもしれません。
大きな展覧会でこうした失態を晒すことに関してはいくつもの葛藤に悩まされましたが、もはや絶望の心境でその失敗を祝福できる日が来ることを祈って、その不恰好な様を一切をさらけ出す展示にすることにしました。
もしかしたら、これは自己受容のようなものかもしれません。

一方で、アーティストにとっての成功と失敗、アートにおける成功、発展、進展などについても考えを巡らせています。そして成功の正当化の歴史についても語っています。
より優れた、より豊かでより発展した未来を望むのは決しておかしいことではありませんが、よくよく考えてみると、この世界では物事が全て思うようにいくことの方が稀なのだと思い出さざるを得ませんでした。
昔、灼熱の太陽の下、赤黒く染まった革の鞭で背中をバシバシ打たれながら船のオールを漕ぎ、隣の隣の男がとうとう力尽きて死に絶えるのを、みな横目で見ながら、今夜雨が降るといいなと夢見た日々を。

閑話休題

先日の札幌国際芸術祭の開催キャンセルの報道を見ていて、早い段階でこうした判断をできたのは、苦渋の思いではあったでしょうが、勇気のいる判断だったと思います。

サンク・コスト(事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力)を考えて、キャンセルができず、傷が深くなってしまうケースが多いと思います。その意味で、札幌国際芸術祭のキャンセルとその後のオルタナティブな進め方には非常に明晰な判断だったと思います。

今回、ヨコハマで展示中の映像作品の中でも触れていますが、ベケットは “to be an artist is to dare to fail as no other would dare”(アーティストであることは、他の何者にも真似できないような失敗を恐れないこと/あえてすることだ)と言い残しています。

そもそも成功と失敗というのは目標によって定義されます。
なので、目標設定によって同じ行為が失敗にでも成功にでもなるのはいうまでもありません。
ベケットの言葉はは一見勇気付けられるようなものですが、そこには暗に目標設定と成功が示されています。
つまりそこには目標があるからこそ、失敗をするのです。
でもそれを裏切ることがアートである、という矛盾でもってアートを定義しよとしているのかもしれません。

世界がより豊かな経済、より生産的な活動、より効率的な仕事を追い求めるようになって久しいです。クーベルタンが近代オリムピックを提案したときから続くモットー、「より高く、より速く、より強く」という言葉に上手く象徴されていると思います。しかし、世界には一つの物差しで測ることで失われることもあります。あるいは、一つの物差を用いて競うことで崩壊する豊かさがある気がします。

世界中を襲っているウィルスの存在にもかかわらず、経済や成果を重んじて薦める作戦にはそうしたトラップがある気がします。そのトラップは100年前からそこにあったのですが、今になって気づいて落ちているのかもしれない。あるいは、我々は丿貫(ヘチカン)がこさえた落とし穴にわざと落ちる利休のようにその穴に落ちているのか。あまり堂で鼻息がするのですが、それなら救いがあるのです。

つまり、散歩に失敗するのができないように、自由に物事を感じ取り、判断し、作り出せばいいのでなないかと。
成功と失敗がどれほどの意味があるのかについて考えさせられる作品制作過程でした。

字幕が出来上がりましたらぜひご覧下さい。


※ちなみに失敗を礼賛したベケットは文学賞の最高峰と言われるノーベル文学賞を1969年に受賞していますので、彼の言葉がどれくらい矛盾を免れるのかは不明です。しかし、正統性は得ました。
※そもそもダイナマイトの発明で「死の商人」とい揶揄され、死に際にイメージ回復したかったアルフレッド・ノーベルが自身の死後の全財産を元手に設立させたノーベル賞の権威が何に依拠しているかを考えると皮肉でなりませんね。

追記:床の中で寝返りを打ったり、席の上で座り直したり、歩くのを止めて靴を脱ぎ、逆さにして靴の中の小石を落とし出すと言った行動はすべて、寝心地の悪さ、座り心地の悪さ、ある着心地の悪さといった不満に対する反応としての行動であるように、すべての行動の裏には現状の批判あるいは抗議があります。

自分や世界の状況をそのまま評価して受け入れることと同時に、とある未来に向けて行動することの両立はできないのだろうかと考えています。「行動をすること」と「行動をしないこと」をどうしたら同時にできるのかという自問をしている過程の作品かもしれません。作品の中では、ただ寝転がっているだけのような映像がたびたび現れるのですが、実際はただ寝転がっているだけなのです。

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