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うなだれの民

かわいくない。
 目の前に置かれた人形を手で払う。樹脂でできたオブジェはフローリングの床に落ちてゴトンという音を立てる。思っていたより重い。
なにこれ!
 声が荒ぶる。生理前なんだよ。頭痛いんだよ。
話題だったから並んで買ったんだ。ほら、雨が降りそうになると機嫌が悪くなるじゃん、レナって。
名前が最悪!
 カユルの目がキロっと動く。
「うなだれの民」いいじゃん。面白いじゃん。
私は面白くないよ。
「ひだまりの民」がヒットしたのは、太陽電池を内蔵した首が左右に動く姿がウケたからだ。丸い顔に二頭身、ニコちゃんマークそっくりな顔。一時はどこの窓辺でもカチカチいっていて、正直あのポジティブさが苦手だった。
 でもこれはない。

 ひだまりの民はとっくに「のほほん族」とかいうさらにわからない名前に変えられてしまった。歌う種族もいるらしいが関係ない。
 カユルが買ってきたのは、日光ではなく、気圧で動くのが売りの最新バージョン。高気圧なら上を向く、低気圧なら下を向く。
上を向くのはいいよ。「上を向いて歩こう」っていう歌もあったじゃない。でも下を向いている様はなんとも陰気で、顔の色も湿気によって変わるから、雨の日は青ざめてうなだれる。
 誰が名付けたか「うなだれの民」。
最悪のネーミング。

こいつにはわからないんだろうな。雨が降るかもしれないって時に、どよ〜んと重くなるあの感覚。なぜ私だけ? 何か悪いことしたっけか。
降りはじめてしまえば、まだいい。顔を見合わせ、肩をすくめてあ〜あ仕方ないね。今日はソファでくっついてPrimeビデオ見ようかって言える。空は晴れてあいつがウキウキとシャワーから上がって、水滴がついたままの体にバスタオルだけ巻いて、缶ビールをシュポッとやっている時が最悪だ。私の体内に「どよん」という産声をあげて化け物が生まれ膨れ増殖し始めて、それに乗っ取られそうになりながら精一杯戦っている時が。

堕ちてしまえばいい。つぶやく声は子宮から。
いじって欲しい。湧き出る声はワギナから。
雨よ、降り出せ、降り出せ降り出せ。
うなだれの民は転がったまま青ざめている。

 雨が降り出す。私の中の「どよん」は解放されてどこかに消える。狼は羊になる。羊毛はぐしょ濡れで重いけれど、もう誰かを襲ったりしない。
ひと幕終わり。

 梅雨の晴れ間。うなだれの民はリビングでテレビと共存している。あのままになっていたのをカユルがそこに置いたらしい。昨日から晴れている。うなだれの民、略して「う民」は上を向いている。顔は薄いブルーでご機嫌に見える。この物理的法則ったらない。上を向いているだけで機嫌よく見える脳のバグが憎い。口紅を塗りながら、鏡の前で上を向いてみる。ご機嫌には見えない。気が強いように見えるひたすら。ダークレッドの唇をうっすらと開ける。ただの阿呆だ。起き抜けのカユルが通りかかる。
エロい、と言いながらうっすら髭の生えた顔を近づけてくる。右手が軽快に音を立てる。
痛ってぇ。いいよね、出社しなくてすむ人は。

完了、と送ったメールに訂正が返ってきた。入稿まであと数時間。余裕を持っておいてよかった。1時間あれば終わる作業。企業の小冊子作成を請け負っている会社で仕事は個人単位。上席には報告するが直属の上司はいない。それが気に入っているから続けていられる。だが梅田は違う。何が気に入らないのか仕事にいちいち口を出してくる。理由はわかるようでわからない。横を剃り上げているのが気に入らない。3箇所、穴を開けているのが気に入らない(ばーか、ほんとは6つだよ。お前の前でヘソ出さねえから)。ネイルが派手なのが気に入らない。唇が吸血鬼みたいなのが気に入らない。同棲しているのに結婚していないのが気に入らない。そんなこと一言も口にしていないのに、梅田は知っていた。おしゃべりなやつはどこにでもいる。地獄へ落ちろ! 

落ちる、も下向きだな、とレナは思う。「う民」が来てから上と下を意識するようになったかも。ひだまりの民は右に左に揺れていた。右と左は意識したことがない。梅田のイヤミも顔を上げ、目を見開いたまま聞いた。レナの尖った顎が上を向く。ツン、という形容詞と上下には関係がないはずだが、梅田の捨て台詞は「生意気な」だった。上を向いたら、生意気ですか? 生焼け、生意気、生ビール。

 カユルを呼び出し、クラフトビールの店で待ち合わせる。前から気になっていたけれど、いつも満席。待つのは嫌だと思っていた。好きなものを我慢するのとどっちが癪だろう。「生意気」からの連想で無性に生ビールが飲みたくなった。それもスカスカのチェーン店のビールじゃないやつ。あれって絶対薄めてあるよね、というとカユルは曖昧に肩をすくめる。カユルは出されたものを美味しそうに食べる。自分でも料理をする。お互い一人暮らしが長い。時々無神経なこともするが、あいつのいいところは色々ある。カウンターに座り、No.1~10までのクラフトビールが書かれたメニューを見て、わからないやと呟いたカユルは、1番から順に頼むことに決める。私はメニューを見て直感でNo.9「ウッドランド」を選ぶ。銀色の注ぎ口から泡があふれ出し、それが液体になっていく。カユルのビールは黄金色に輝いている。No.9はどちらかというと深い琥珀色だ。一口飲んだあとグラスを交換する。No.1は素直で飲みごごちが良い。カユルみたいだ。No.9はスモークされたような香りがついている。作りすぎ。

「俺、鈍いからさ」とNo.3を飲み干したあたりでカユルが言う。レナはNo.8をゆっくりと飲んでいる。カユルの真似をしたと思われるのも癪だが、番号を遡ってみることに決めた、今日は。5杯ずつ飲めば全種類わかるわけだし、とこれはカユルの台詞。
「レナが調子悪いのか、機嫌が悪いのかわからないことがある。『うなだれの民』で気圧の変化がわかれば、俺ももう少し気づかってやれるかも」
えっ、なに、こいつ天然の頭でそんなこと考えていたのか。
「でも、気味が悪いなら捨てていいよ」
いや確かに邪険にしたけど、捨てるというほどでは。
「知らなかったんだけど、ネットでもいろんな噂あるし…」
 問い詰めたけど、カユルは口を割らなかった。珍しい。思っていることを素直に口にすることが美点のあいつにしては。

 その日はもう一杯ずつ飲んで帰った。コンプリートならず。アパートに着くなり、カユルは自分の部屋で寝てしまった。生理も始まっていたレナは眠いはずなのに目が冴えた。「うなだれの民」で検索すると、出てきたのは思いもかけない言葉たちだった。

「うなだれの民」の呪い。
バージョン2はさらに過激に。
うなだれて欲しいアイツの名前を。

 テレビの横で真っ直ぐ前を見ている「う民」が目に入る。顔色はちょうど水色、ポーカーフェイス。明日は上向くのか、うなだれるのかわからないといった風情。どちらにしても「う民」のせいじゃないのに。こいつは気圧に従っているだけ。私だってそうだ。それに意味付けするのはいつだって他人。
 レナは「う民」に手を伸ばした。

 翌週、土砂降りの日に職場で言いがかりをつけられた時もレナは目を逸らさなかった。梅田は汗ジミのあるシャツの襟を指でなぞると、諦めたように頭を振ってさっていった。デスクに座る奴の頭ががくりと落ちるのを見届けて、レナはザマアミロと思った。先日、上席に梅田からのモラハラを訴えたところだ。多分何か言われたのだろう。文句にも勢いがない。
 レナはリビングで首を垂れ、最大限にうなだれている「う民」を思い浮かべた。「う民」の底に浅い蓋がある。ネットの情報でそれを知ったレナは小さな紙切れに名前を書いて入れた。誰の名前か言う必要はない。もちろんカユルにも言ってない。勝手にレナのものをいじるようなことはしないと信じている。
 それ以来「う民」がうなだれている様があいつに見える。うなだれれば、うなだれるほど、嬉しい。青ざめた顔で許しを乞えばいいと思う。ただ気圧が下がっているだけなんだけどね。毎日雨の国へ行きたいとさえ思う。あいつが転属させられたら、その時はお祝いして「う民」と書いた紙切れと入れ替えよう。
 その時、「う民」の絶望は彼自身のものになる。







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