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「癒し」が必要とされる時代は、終わるのかもしれない

「癒し系」という言葉も聞かなくなりましたね。『ARIA』は全巻持ってました。

セラピストなので、人を癒すことがビジネスとしてのミッションになるんですけど、人を癒すことがビジネスとして成立するためには、それだけ癒しを必要とする人の存在が不可欠になるわけです。需要と供給ですね。
そういう意味で言うと、今「癒し」を必要としている人の数って、どんどん減っていっているような気がするんです。世の中を見ていると。

純粋に身体的に疲れたということから、精神的に寂しくて心細いということに至るまで、じつは「癒しを必要としている」と自らが認識・判断するに至るには、相当の覚悟のようなものを必要とするんです。自分の弱さを見つめることになるわけですから。
今、そうやって自らの弱さを認めることがどんどんできにくい世の中になっていっているでしょう。負けを認めてはいけない、謝ったら終わりという風潮が世を席巻するようになっていって、誰もが勝利とマウントを追い求めて血眼になっている。

逆説的なんですけど、「癒しを必要としている」と自分に認められようになるためには、環境にも精神にもそれなりの余白を必要とします。戦場に整体院を建てても意味がない、みたいなもので、自分が切羽詰まっていると感じられるようになるために、それなりに切羽詰まっていない環境と状況が揃っていないといけないわけです。
そして今この国は「それなりに切羽詰まっていない環境と状況」から、脱落しようとしているんじゃないかという気がします。

癒しを必要としている人の数が減っているというよりは、癒されたいとのどかに思えるほど余裕がこの国から失われつつある、というのが正確でしょうか。

そうすると何が起こるかというと、「セラピーの貴族化」が始まるんですね。すでにスピリチュアルヒーリングとかエネルギーワークなどはそれが顕著になっていて、シャトーマルゴーのワインとか、1960年代のスポーツカーなどと同じように、貴族が贅沢として嗜むものとしてセラピーが位置付けられるようになってくる。
セラピーが癒しを提供するためのものではなく、贅沢欲を満たすためのものになってしまう。

それはよくないよなぁ、と純粋に思います。

たぶんこれから、「セラピーはどこまで世の中に“降りて”いけるのか」ということが議論されるようになると思います。
今はどれだけ太い顧客を掴んでビジネス的に成功できるか、という議論がセラピスト業界でも活発ですが、反動として「そもそもセラピストってなんで世の中に存在しているんだっけ?」と立ち返る瞬間が訪れるでしょう。

寂しいと、疲れたと、癒されたいと声を上げることができなくなった世界で、私たちは何をするのか、何ができるのか。
そういうことを、セラピスト自身が考えないといけない時代が、すぐそこまで来ているような気配を感じます。

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