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noteきっかけで出演したアベプラ「日本の子育ては世界一ムズい?アフリカに学ぶ教訓」特集で伝えたかったこと。

昨夜、「ABEMA Prime(アベプラ)」というネット番組の「日本の子育ては世界一ムズい?アフリカに学ぶ教訓」特集に出演する機会をいただいた。

このnoteを読んでくださったディレクターの方から出演依頼をいただき、ちゃんと話せるか不安でどうしようかなと迷いつつ、でもこんな機会はそうないし、たまたま日本に一時帰国していたこともあって、スタジオから出演させていただくことに。

放送が終わってからは、もっとあんなことを言えたらよかったなあ・・とか反省ばかりだけど、補足も含め、こんなことが伝わったらよかったな、というメモを残しておく。

番組の特集テーマは「日本の子育ては世界一ムズい?アフリカに学ぶ教訓」。

冒頭では、日本の子育てのしづらさを象徴するような以下の記事のエピソードが紹介されていた。

記事のコメント欄含めて、たしかになかなか悲惨だ。またこんなデータもあるという。

僕が日本で暮らしていたときは、日本しか知らなかったし、子育てのしづらさをとりたてて感じていたわけではなかった。だけど、セネガルで子育てをしていると日本での難しさに気づくことは多い。

この一時帰国中も日本でバスに乗っていると、セネガル仕様になっている子どもたちの声のボリュームが大きく、他の乗客に舌打ちをされ、あからさまに迷惑そうにされたりする。そんなことは日本では珍しくない。

数日前にはこんなツイートも話題になっていたという。

セネガルでこんなことをする人がいたら、たぶん周りの乗客からボコボコにされている。とにかく日本では、子育てしていて不快な思いをする例は枚挙にいとまがない。

そして、こうした日本での子育てのしづらさを解消するためのヒントをセネガルから得てみよう、というのが番組の趣旨だった。

僕が思うセネガルでの子育てのしやすさを一言で言えば、「子どもや子育てに対する寛容さ」に集約される。

日本では、子どもは親が見るもので子育ても親がするもの、だから子育ては自己責任、という風潮があるように思う。

一方でセネガルでは、子どもはみんなのもの、子育ても親だけでなく社会のみんなでするもの、という意識が通底している。

だから誰しもに子育てに対する当事者性がある。何か手助けしてくれるのも、個々人のやさしさに依存するではなく、誰もが当たり前のようにすることが社会のデフォルトになっている。

番組でも話したけど、たとえば道端とかで子どもが泣き喚めいてどうしようもないとき、日本では素通りされるのがふつうだし、ときには冷たい眼差しを向けられることもある。

それがセネガルだと、通りすがりの人があやしてくれたり、「大丈夫か?」と声をかけてくれたりする。

些細なことだけど、子育てにいっぱいいっぱいになっていると、そうした社会に救われることも多い。

また、セネガルには社会としての規範や規律もいい意味であまりない。

放送でもEXITの兼近さんが言われていたとおり、日本は子どもや子育てに対して「こうしたほうがいい」とか「こうするべき」ということが多い。

公共空間では静かにしないといけないとか、人に迷惑をかけてはいけないとか。そうした規律・規範による周囲からの圧力、そして親の自意識も強い。

それがセネガルでは、「どうあってもいい」というのが基本だ。人に迷惑をかけていい許容範囲も格段に広いというか、迷惑という概念すら希薄な気がする。

日本で論争になることが、セネガルで論争になることはまずない。

ゲストで出演されていた子育て研究を専門とする京都大学教授の落合恵美子さんも言っていたけど、よく考えたらこれらが論争になること自体が不思議でもある。

番組には、セネガルで子育てする当事者として、僕のほかに上のnoteで「セネガルで子育てするシングルマザー」として話を聞いた鎌田のどかさんも出演した。

のどかさんはセネガル人の元夫との間にもうけた2人の子どもを仕事をしながら一人で育てていて、セネガルでもよく一緒に遊ばせてもらっている。

僕はまだセネガルに住んで1年弱だけど、のどかさんは7,8年セネガルに住んでいて、子育てだけでなくセネガル社会にも精通している。

今回の放送で個人的に最も印象深かったのは、最後にそののどかさんが言っていたことだった。

(冒頭の記事にあったスーパーで子どもが商品にベタベタ触ってしまっていたとき)「親がしつけしなよ」と知らないおじいさんから言われたというのは、日本では親に言われるけど、セネガルではその人が子どもに直接言ってくれる。それは、言う側は日本では親を責めるけど、セネガルではその人が子どもをしつけてくれるのが大きな違い。

というようなことを話していた。その違いこそ、まさに日本とセネガルの社会のあり方を象徴している。

また同時に思ったのは、そうした子育てに冷たい目を向けたり子どもの言動に不機嫌な人が多いのは、社会としての心のゆとりのなさを表しているんじゃないか、ということだ。

彼らはたぶん、子どもが憎いからそうしているというより、日々のストレスや精神的な困難ゆえに、他者に感情をぶつける行為に至ってしまっているんじゃないかと思う。

もちろん、その吐口が子どもや子育てに向くのは間違っているけど、これだけ子育てしづらいエピソードが尽きないことを考えると、個々人の問題でありつつ、それ以上に社会全体の問題でもあるように思う。

その意味で、子育ては社会としての問題をあぶり出すものでもあり、その社会を映し出す鏡でもあるのかもしれないなと感じる。

日本に帰国して改めて驚いたのは、バスや電車に乗ると、小さい子どもを抱えた親や高齢者が立っていて、若者が席に座っていて席を譲らないシーンを多く見かけることだ。

セネガルならありえないことで、座っている人が当然のごとく子どもを膝に乗せてくれたり(荷物も誰かの膝に乗せられる)、高齢者には席を譲るのが当たり前で御礼も存在しない。

ただついこの前、日本で子どもを抱えてバスに乗っていたら、席を譲ってくれようとした人がいた。なのに、僕は反射的に「あ、大丈夫です」と言って遠慮してしまった。

後から思えば、素直に頼ってよかったし、譲ろうとしてくれた人もそのまま譲れたほうが気持ちいいはずだったとすごく反省した。

僕も席を譲って遠慮されることはあるし、もしかしたら、そうした善意の受け止め方も、自分をはじめ日本人は苦手なのかなと思ったりもした。

番組の中では言えなかったけど、セネガルで子育てして気づけたのは、人を頼ることの大事さだ。もっと人を頼っていいし、頼れるんだということをセネガルで日々実感している。

今の日本には子育てにしてもなんにしても、人に頼ることのハードルが高いように思う。

でも、たとえば駅の階段とかで「ベビーカーを運ぶの手伝ってくれませんか?」など、頼れば意外と応じてくれること多いし、僕も頼んでみたり頼まれたりした経験がある。

そうした「頼る」というアクションがもっと社会全体で増えるといいんじゃないかなと思うし、僕もいつかまた日本で子育てするときは、どんどん頼れる自分になりたいなと思っている。

番組でもこのnoteでもセネガルでの子育ての良い面ばかり語ってしまったけど、生活という意味では不便なことが多いのも事実だ。

公園がないことやフランス語が難しいこと、住む地域によって断水や停電が多く、医療に不安もある。

それでもセネガルでの子育てはやっぱりいいなと思うから、それを広く伝える機会として、こうしたテーマを番組で取り上げていただくのはとてもありがたかった。

また、僕も前職ではディレクターとしての仕事をしていたこともあり、番組制作に関してもとても勉強になった。

お声がけくださったディレクターの堀江さんは最初から最後までとても丁寧で、台本を見ながらこうして切り口をつくって議論を深めるのかと学びが多かった。

本番中も、平石さんの進行は『超ファシリテーション力』で読んだ通り圧巻で、堀さんはCM中に話しかけてくださって緊張をほぐしてくれ、中川さんとは5年ぶりくらいの再会で、柴田さんは実体験からのコメントが興味深く、EXIT兼近さんのコメントは共感することが多くて、EXITりんたろー。さんは最後に僕のフランス語のできなさをオチにしてくださった。

日本で子育てする多くの人にとっては、アフリカという遠い国での子育て事情を知ったところで何もならない、と感じるかもしれない。

でも、日本よりはるかに不便な国でなぜ子育てがしやすいのか、その実情や背景を知ることは、日本の子育てのあり方を問い直す手がかりを得ることにもつながるんじゃないかと思う。

そのヒントを少しでも感じ取ってもらえたらと思うし、僕自身も今後セネガルで子育てをしながら、もっともっといろんな気づきを得ていきたなと改めて感じた経験だった。

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