6953-6958: アートの国オランダからの便り 2021年5月23日(月)

タイトル一覧
6953. 今朝方の夢
6954. 穏やかな朝日を浴びながら
6955. 目覚めと卒業
6956. リアリティへの関与/思い出の伝承
6957. 既存の経済思想と仏教的・シュタイナー的経済思想の探究と実践に向けて
6958. トランスパーソナル経済学の輪郭

6953. 今朝方の夢

時刻は午前5時半を迎えた。幸いにも今朝は晴れていて、今、仕事場の窓から晴わたる朝の世界を眺めている。風は一切吹いておらず、新緑の木々が凛として佇んでいる。

静けさの中に、小鳥たちの鳴き声が響き渡っている。湖面に落ちた水滴の波紋が広がるかのように、彼らの鳴き声が辺りに響き渡ってゆく。


いつものように今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、見知らぬ人の家にいた。そこは高級高層マンションであった。

私はその方の家族と一緒に朝食を共にしていた。普段私は朝食を摂らないこともあり、朝食が食べられるか心配であったが、出された朝食の量は少なく、卵料理一品だけだった。

それはこれまで食べたことのない卵料理であり、すき焼きのタレのようなものだけが入った小さなポットが1人1人のテーブルの上にあり、それを沸騰させてそこに卵を入れて茹でるという料理だった。

その料理が出来上がるまでの時間、私は家に招いてくれたその見知らぬ男性と、今朝方入って来たニュースについて話をしていた。海外のある有名な動画配信会社の社長が自殺したというニュースである。私たちは、なぜ彼が自殺をしてしまったのかについて憶測を交えながら話した。

真相は闇の中であり、気がつくと卵料理が出来上がっていた。ポットの蓋を開けると、とても良い香りが立ち込めて来た。そこでふと、茹でられた卵の殻はどこに捨てればいいのだろうと思ったところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は南国の見知らぬリゾートホテルにいた。ホテルのプールサイドでくつろいでいると、同じくプールサイドでくつろいでいる人たちが、国外のある暗号資産取引所について話を始めた。そして、今朝方の乱高下する暗号資産市場について話を始めたのである。

私もその取引所を利用していることもあり、彼らの話に耳を傾けていた。私は市場の乱高下を特に気にしていなかったが、自分でそれを確かめてみようと思った時に、どういうわけか脳裏に様々な暗号資産のチャートが表示された。確かにどれも乱高下しており、価格が随分と下がってから反発をしているようだった。

ふと気がつけば、私はいつの間にかプールサイドにはおらず、そこから外の通りに出ているようだった。通りの前の車道から、1人のキューバ人風の若い男性が自転車を漕いでやって来た。彼は私のそばで自転車を止め、私を一瞥すると、反対側の通りの方に自転車を押してどこかに行ってしまった。


その他にも、ある知人の方が先日日本でローンチされた暗号資産を用いて私を含めて数人にメッセージを送ってくれた夢の場面もあった。その暗号資産は送金速度が尋常ではないほどに早く、実際に暗号資産そのものを送らなくてもメッセージだけでも送れるようになっていた。

その方はメッセージの中で、今朝方のニュースについて言及していた。それは1つ前と2つ前の夢の中で現れたトピックが合わさって、少しばかり変化しているものだった。

端的には、ある日本の暗号資産の取引所の社長の突然の自殺と、今朝方の暗号資産市場の乱高下についてだった。知人のメッセージを読んでいると、そばにいた別の知人の方もそのメッセージを受け取っていたようであり、私はその方がその暗号資産を小額ながら保有していたことを驚いた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2021/5/23(日)05:49

6954. 穏やかな朝日を浴びながら

朝日が仕事場の窓から差し込んでいる。そう、これを浴びるために昨日仕事机を移動させたのである。

この時期の朝日はとても清々しく、それでいて優しい。朝風呂から出て絵を描いたり、詩を作ったりしながら、朝日を存分に浴びていた。これが1日の良きリズムを作ってくれるはずである。


数日前からジャズピアノの面白さに目が開かれた。先日届いたジャズピアノの楽譜を参考に曲を作ってみると、これまでとは違った感覚がまた開花したようだった。

同じ音楽であっても領域を少しばかり変えるだけでこれほどまでに新たな気づきや発見があるのかと驚かされる。何よりも、新たな感覚や感性が開かれていくかのような現象に小さな驚きを持つ。

昨日届けられた3冊の書籍のうち、1冊はジャズピアノの楽譜であり、別の1冊は現代ピアノの楽譜であった。今参考にしている楽譜に掲載されている曲を全て参考にしたら、それらの楽譜に取り掛かりたい。

改めてまたどこかのタイミングで、ジャズ理論を含めた音楽理論の探究をしたいところである。音楽学校に通うことまでは考えていないが、仮に神学校に進学した場合に、その大学院に音楽学校があれば、音楽理論に関するコースを受講したいと思う。

もちろん、そこで教えられていることは正統的な音楽理論であるから、色々と窮屈なことはあるだろうが、基礎的な事柄や標準的な事柄についてはしっかりと押さえておきたいという思いがある。その土台の上に自分なりの理論を創出していけばいいのだ。


今日からまたバスカーの批判的実在論に関する書籍を集中的に読んでいこうと思う。バスカーの思想体系は、今後の探究になくてはならないものである。

インテグラル理論の手が及んでいない部分を補完するためにバスカーの思想体系を深く学ぶ必要がある。その先に、インテグラル理論と批判的実在論及びメタ実在論の統合が初めて実現される。

それにしても批判的実在論やメタ実在論がジャーナルや学術書を含め、これほどまでに数多くの研究者が参画している実践思想体系であるのに、日本でほとんど紹介されていないのはなぜなのだろうか。バスカーの書籍に至っては、なんと2、3冊しか翻訳されていない。しかもそれはバスカーの初期の作品だけである。

バスカーが晩年に打ち立てたメタ実在論については一切の翻訳書がない。そうした状況を見ながら、少しばかり翻訳の必要性と自らの役割に関する考えが脳裏をよぎる。

自分は決して翻訳者ではないのだが、この領域についての翻訳書の充実の必要性を感じる。本当であれば、他の先進国の人たちのように、英語の書籍は英語のままで読んでいくことが日本人にも求められているように思うが、どうも依然として言語空間は閉鎖的なままである。

そのようなことを考えながら、ルートリッジ出版から出されている批判的実在論の用語集が非常に充実していることもあり、その翻訳のアイデアが芽生えた。自分に与えられた役割からすると、おそらく実際にはそれに着手しないだろうが、何らかの形で批判的実在論やメタ実在論は日本に紹介したいところである。

インテグラル理論や成人発達理論と関連づけた形であれば紹介しやすいのかもしれない。なぜなら、批判的実在論やメタ実在論は、インテグラル理論や成人発達理論と相通じる部分が多分にあり、インテグラル理論や成人発達理論に関する理解が日本でも進み始めているからである。

来る時がやってくるまで、ひたすらに批判的実在論とメタ実在論に関する書物を読み進めていこう。フローニンゲン:2021/5/23(日)07:06

6955. 目覚めと卒業

小鳥たちの清澄な鳴き声が辺りに響き渡っている。昼も近くこの時間帯にそうした世界が広がっていることに有り難さを感じる。

今日はオランダは祝日のようであり、外が寒いこともあってか、外向的なエネルギーを感じない。むしろ静かに内に向かっていくようなエネルギーを感じる。そしてそれは自分にも影響を与えており、今の自分はその影響下にあると言えるだろう。


人間は誰しも夢を見ていて、この世界で夢遊病者のような形で生きているということについて考えていた。そうした考えを沸き起こらせたのは、今朝方「一瞬一生の会」に参加している方の内省ジャーナルを読んだことがきっかけである。

成人発達理論やインテグラル理論、あるいはバスカーの批判的実在論やメタ実在論というのは、私たちに目覚めをもたらしてくれるものである。ただし重要なことは、目覚めるためには夢を見ていなければならず、それらの理論はある意味まずは夢を見せることを私たちに促すのかもしれない。

とりわけ人間の成長に関するメタ理論としての成人発達理論やインテグラル理論というのは、端的には成長発達に関する夢を私たちに提示し、その夢を私たちに見せてくれるのだ。当該領域を学習し始めた頃には、必ずやそうした夢を見て、長くその夢の世界を生きることになる。

だがある時ふと、それらの理論の真髄を掴んだ瞬間に、それらの理論が作り出した夢から覚める瞬間がやってくる。人間の成長発達のプロセスとして、同一化、差異化、統合化を経ていく必要があるが、まさにそれらの理論に同一化することを通じて学習や実践を続けていると、ある時ふと差異化の瞬間が訪れるのだ。それがそれらの成長理論からの目覚めである。

そこからまた興味深いことが起こる。目覚めて以降、それらの理論に対する捉え方が大きく変わり、単純にそれらの理論が生み出したある種の概念虚構的な世界から離れていくのではなく、そうした虚構世界の中に息づくリアルや真実を発見し、再びその虚構世界に入る形で、その世界で依然として夢を見ている人との対話や協働を通じて、彼らの目醒めを促しながらにしてその虚構世界そのものに働きかけていくようになるのである。

そうしたプロセスに至らない場合は、おそらく差異化の失敗か、統合化の失敗であろう。すなわち、そうした概念虚構性の全てを虚構の産物だとみなしてしまい、一切そこに関与していこうとしないある種の虚無的な態度が芽生えてしまうことには注意しなければならない。それはある意味、健全な発達ではなく、病理的な発達を遂げてしまったときに起こることである。


その方のジャーナルを読み、「成人発達理論やインテグラル理論を真の意味で深く理解し、この世界のために真に活用できるのは、それらの理論を卒業した者だけだと思います」という類のコメントをしたことを覚えている。卒業の難しさと大切さ。それらの理論と分離的に卒業するのではなく、差異化を通じた統合化として卒業していくこと。それが非常に重要だ。

もう一度繰り返すと、そもそも夢から覚めるためには、夢を見なければならず、そうした意味において、夢を見ることの大切さも思わされる。だが、夢の世界でとどまっていてはこの世界の変革変容は実現されず、夢から覚めていくことが重要になる。

そして、夢から覚めた者の役割は、夢を見ている者の夢の世界の中に入り、協働や対話を通じて、ゆっくりと夢の世界から目覚めさせていくことであり、さらに重要なことは、夢を生み出している装置や基盤そのものを変容させていくことなのだと思う。フローニンゲン:2021/5/23(日)11:18

6956. リアリティへの関与/思い出の伝承

書くことが存在しているということ。書くことが与えられ、書くことが許されていること。それに対して感謝の思いで一杯である。

先ほどまで晴れていた世界から一変して、今はシトシトとした小雨が降り注いでいる。どことなしかそれは、この世界を浄化するために必要な雨のようにも見える。

この世界には、本当に浄化すべきことが山積みである。この社会的リアリティに堆積した種々の問題。それは物質圏や生物圏に深刻な影響を与えている。

先ほど、「一瞬一生の会」の参加者の知人の方の内省ジャーナルのある記事に触発されて自分でも日記を書いていた。その方のジャーナルの中で、この世界への関与というのはゴミ拾いのようなものかもしれない、というようなことが書かれていた。

実はこの考えは、自分がアメリカで生活をしていたときにふと降って来たものと全く同じであった。ロイ·バスカーは、私たちの可能性と自由を制限しているものを1つ1つ取り除いていくことが哲学や科学の真の役割であるとみなし、私たちの可能性と自由の足枷をゴミに例え、ゴミを特定し、ゴミを除去していくことを”underlabouring”という言葉で表現している。

私たち1人1人が気づくゴミ、直面するゴミは固有なものである。私たち1人1人が担うべきことは、自分で気づいたゴミは自分で拾うということなのではないだろうか。

そのゴミは、その人を通じて初めて認識されたものであるかもしれない。そのゴミを見過ごしてしまうことは、そのゴミによって他の人が可能性と自由の制限を受けることにつながってしまうかもしれないし、また別のゴミの創出につながってしまうかもしれない。

そうした意味で、自分にできる限りの形で、ゴミを特定し、ゴミを拾っていくことが重要なのだ。そしてさらに重要なことは、そもそもゴミがそこに生まれくる構造やメカニズムを特定し、それらへの働きかけを行っていくことである。でなければ、そのゴミは自分がいなくなったらまた生み出されるだろう。

下手をすると永遠にそのゴミが生み出され続ける可能性もあるのだ。ゴミの再生産の流れを断ち切ること。それに寄与するのがインテグラル理論や批判的実在論といった実践的メタ理論なのだと思う。

先ほど久しぶりに、一瞬一生の会に関する音声ファイルを作った。その中で、父がオーストリアのオーベルンドルフという村を訪れ、その話を聞いた自分が15年後にその村に足を運んだ時のことを話した。

その中で、1人の人間の思い出が他の人の思い出になることの素晴らしさを思った。思い出というのは伝承され、別の人の中で新たな思い出を生み出すものなのだ。そのようなことを感じた。

雨脚が強くなって来た。雨音が何か大切なことをまた伝えようとしている。フローニンゲン:2021/5/23(日)11:40

6957. 既存の経済思想と仏教的・シュタイナー的経済思想の探究と実践に向けて

時刻は午後1時を迎えた。昼前に降っていた雨は止み、再び穏やかな世界がやって来た。

先ほど、いつものように軽めの昼食を摂っていると、ふとした考えがよぎった。男の女化と女の男化は、男性性·女性性の統合とは全く異質のものである、という考えだ。

日々の生活の中で、こうした単発的な考えが無数にやって来て、それがいつの間にか組み合わさったり、深化していくことを通じてまとまりのある考えになっていく。


その瞬間に、自分を通してでしか開示されなかった真実。それを言葉にすること、曲にすること、絵にすること、詩にすること。自分に託されている重要な役割はそれである。

1人の固有の人間としての自分を通じて開示された真実は、他者の真実の顕現化を導いたり、他者の真実の深化をいつか必ず促す。

真実の私有化ではなくて、絶え間ない公共化を行っていくこと。種々の表現手段を通じてそれを行っていくことが自分に与えられた役割のようなのだ。


昨日注文した仏教経済学の書籍が届くまでに時間があるだろうから、既存の経済思想に関する書物を読み進めていこうと思ったところ、それらの書籍が手元になく、それは以前実家に送ってしまっていることに気づいた。オランダに引っ越す際に実家に送っていて、オランダに持ってこなかったのだ。

今度日本に一時帰国する際には、是非ともそれらの書籍をオランダに持って帰って来たいと思う。また探究上必要であれば、改めて経済思想の歴史的変遷が網羅的に解説された学術書を購入してもいいかもしれない。おそらくそのテーマで行けば、ケンブリッジ大学出版かオックスフォード大学出版の書籍がいいように思う。


経済思想の歴史的変遷に関しては、どこまでそれを遡っていくかが悩ましいところである。前近代の経済思想まで遡っていくのか、それとも重商主義まで遡っていくのか。

合理的知性が集合規模で芽生え始める重商主義の時代から出発し、重農主義、古典派、新古典派、ケインズ派、自由主義経済の思想、さらには新々自由主義の経済思想を辿っていけばいいのだろうか。

いずれにせよ、主要な経済思想の歴史的変遷を辿りながら、それぞれの時代の思想の限界と盲点を特定していく。また、その思想に取って代わる次の思想が既存の思想を何をどのように乗り越えていったのかにも着目していく。


そこから、現代の暴走する資本主義社会が立脚している現代経済思想の盲点と限界、及び病理をできるだけ詳細に把握していくように努める。それが何たるかはまだ漠然としか掴めていない。

それを理解するためには、経済思想により精通していく必要があり、現代で起こっている個別具体的な経済現象及びそれがもたらす社会現象に注目をしていかなければならない。そこから仏教経済学の探究を深めていく。

そもそも仏教経済学に着目したのは、既存の経済学でタブーとなっている事柄やアプローチされていない事柄に光を当てるためであり、霊性学の探究もそこに意義を見出す。

メタ理論の探究や仏教的かつシュタイナー的な経済思想を学ぶことは重要だが、それだけでは不十分足であり、変容すべき対象そのものへの理解を深める上で、過去の経済思想と現代社会を覆っている現代経済思想を深く理解していくことが求められる。

そのようなことを考えていると、過去の経済思想の変遷に関する書籍を早急に読みたくなって来た。上述の出版社から何か良い書籍が出版されていないか調べてみよう。フローニンゲン:2021/5/23(日)13:20

6958. トランスパーソナル経済学の輪郭

時刻は午後7時半を迎えた。今、静かさに満ちた夕方の世界が目の前に広がっている。

今日もまた自分の取り組みに打ち込んだ1日だった。その中で、昨日の日記で書き留めていた「トランスパーソナル経済学」の創出可能性について考えていた。

バスカーの書籍を読みながら、それに求められるいくつかの要素が見えて来たが、これからその輪郭をより鮮明にしていきたいと思う。それが「トランスパーソナル」と呼ばれるからには、その経済思想にはトランスパーソナルな意識段階の特性が盛り込まれていなければならない。

しかもそれが、インテグラル理論で言えば4象限的に具現化される形まで明確なものでなければならない。トランスパーソナル経済学が体現された個人の経済意識や経済行動、さらには経済文化と経済システムについて、その特徴をより明確なものにしていく。

また、トランスパーソナル経済学においては、カネの捉え方が現代の資本主義社会を席巻している経済思想のそれとは質的に全く異なったものになるだろう。カネの虚構性について完全に覚めていながらにして、カネを健全な形で社会的に機能させていくような捉え方。それが少なくとも求められる。

そこでふと、各種の意識段階においてカネというものがどのように認識されるのかについても推論的に整理しておく必要があるだろうと思った。1つ1つの発達段階ごとにカネの捉え方は明確に異なるはずであり、その認識上の差異を明らかにしていきながら、トランスパーソナルな段階におけるカネの捉え方まで推論的に明確にしていく。


現代の歪んだ経済思想の上に私たちの文化や制度が堆積されていることの危険性を思う。脆弱かつ病理的な基盤の上に何かがそびえ立っていることの怖さ。


そのようなことを考えながら、既存の経済思想は何かしらの価値観——とりわけその思想を提唱した学者や学派の価値観——に立脚しており、その価値観を詳細に浮き彫りにしながら、価値観の歪みを指摘していく試みを開始していく。

何をどうすればいいのかの道筋は見えており、あとはそれを自分がやるのかやらないのかだけだ。どこまで綿密かつ精力的にやっていくのかも自分の気力にかかっている。


既存の経済思想の歪みについて、それを実証的なデータを持って示していくのか、それともメタ理論を用いて指摘していくのか。自分の関心や特性を考慮すれば、前者よりも後者の道を選んだほうがいいように思える。

メタ理論を用いて歪みの特定と是正案を創出していくこと。その過程の中でトランスパーソナル経済学の詳細が徐々に詰められていくことを期待する。フローニンゲン:2021/5/23(日)19:53

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