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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12049-12054:2024年2月5日(月)

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タイトル一覧

12049. 寝ても覚めても唯識

12050. アヤワスカが登場する夢

12051. サイケデリクスを取り巻く世界のニュースより

12052. サンスクリット語の仏典データが保存されている貴重なウェブサイト

12053. 唯識思想から紐解く書物の読解

12054. 中道を心掛けた生き方

12049. 寝ても覚めても唯識

時刻は午前4時半を迎えた。今日からまた新たな週が始まった。昨日は、唯識思想の研究に向けて英文書籍の一括注文を終え、書籍の到着を今楽しみに待っている。早いものだと今週末ぐらいには届きそうである。少なくとも来週の前半には19冊のうちの大部分を受け取れるだろう。唯識に関しては、いつかサンスクリット語の原典を読める日を夢見ながら、今は英文での解説書や翻訳書を全身全霊をかけて読んでいこうと思う。

今日は朝から風が強く、雨は降らないが、一日中風が強いようなので、午後にジムに行く際には気をつけたいと思う。週に2回ジムに行くことはもう習慣となり1年半近くこの習慣が続いているように思う。ジムに行くことでリフレッシュでき、またジムにいる仲間たちと挨拶をしたり、少し会話を交わすことが精神衛生的にも有益であると感じている。

寝ても覚めても唯識。実際に、寝ている時も私たちは識の世界の中にいて、目覚めても識の世界の中にいる。ここ最近は本当に寝ても覚めても唯識に関することで頭が一杯であり、唯識についての書物を読むか、それについて調べ事をするか、はたまたそれについて考えるかしか日中は行っていない。それぐらいに没頭しているのが唯識思想の探究なのである。繰り返しになるが、いつか必ずサンスクリット語の原典を読むことをしたいと思う。特に英語にまだ翻訳されていないような経典や、英語に翻訳されていたとしてもそれがもう入手しづらいものになっている経典を原典で読みたい。素朴な疑問として、サンスクリット語の原典はどのように入手すればいいのだろうかと思った。大学の図書館に所蔵されていたとしても、一個人が簡単に入手できるようなものなのだろうか。きちんと複製され、コピーとして一般に流通しているものなのだろうか。そうした素朴な疑問が湧く。今の自分は学術機関の外にいるのでそうした心配をする必要があるのかもしれないが、ひとたび学術機関に所属すれば、大学の図書館に所蔵されている可能性が高いし、そうでなくても大学を通じて経典を入手してもらうことなども可能だろう。そうしたことからも、是が非でも学術機関に再び戻りたいものである。サンスクリット語の原典を読むという目的のためだけに学術機関に戻ることを検討してもいいぐらいに学術機関の価値を見出す。

今朝方もまた夢の中で唯識について考えていた。しかもその場所はどこかインドを思わせるような雰囲気の場所で、唯識思想が誕生した本場で唯識について学ぶことは本当に大きな意味と力を持つと感じた。そうした機会に恵まれたことに心底感謝していると、猫の声が聞こえてきて目が覚めた。目覚めると、浴室の屋根の方から猫が大きな声でしばらくずっと泣いていた。何か他の猫と喧嘩をして威嚇しているのか、それとも何か悲しいことでもあったのか。怒っている感じではなく、どこか寂しそうな鳴き声が深夜の世界に響き渡っていた。フローニンゲン:2024/2/5(月)04:52

12050. アヤワスカが登場する夢

唯識に関する夢を見て、猫の声で目を覚ました後、再び眠りの世界に入っていくことにした。夢を見ない深い眠りの世界においては5番目の識を含めた5織は機能を止めるが、6番目の末那識は働き続けている。夢を見ない深い眠りの世界の中でどのように末那識が働いているのかについてはより調べてみたいし、自己観察を自分でも積極的に行っていきたい。自我が自我として存在するための機能を担っているのが末那識であるから、夢を見てない深い眠りの意識においては、それは阿頼耶識や純粋意識と溶け合っているのだろうか、それともそれらとは依然として一線を画して存在しているのだろうか。色々と気になるところだが、昨日注文した書籍にその回答かあるいはヒントになるようなことが書かれているだろうと期待する。

今朝方の夢の続きとして、興味深いものを見ていた。夢の中で私は、実際に通っていた小学校を思わせる学校にいた。5年生以上の高学年が学ぶ校舎の中庭にいて、そこで同学年の2人の友人と1人の先輩と話をしていた。その先輩はのちに中学校でバスケ部で一緒になる先輩で、小柄で性格がとても優しい方だった。4人で何の話をしていたかというと、昨日にとあるイベントでもらった景品としてのピザに関するものだった。その先輩には直接伝えていないが、その先輩がすでに察知していることとして、景品でもらったピザにはなんと、サイケデリクスのアヤワスカが混入していた。まるでカンナビスを料理に使うかのように、アヤワスカの液体がピザ生地に混入していたのである。そもそも昨日に参加したイベントは、変性意識を探求することを目的にしたイベントで、そこではサイケデリクスの摂取は行われなかったが、イベントの参加者たちは一様にサイケデリクスについて語り合っていた。自分はそこに専門家として参加していて、多くの参加者から専門家としての意見を色々と求められた。イベントの参加者との対話はとても有意義で、これからの自分のサイケデリック研究に役立つような情報や発想を得られことは収穫であった。そんなイベントの終わりに、お土産として私は3枚のピザをもらったのである。せっかくなので3枚のうちの2枚を友人にあげることにした。学校にそのピザを持ってきて、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下に置かれていたオーブンに入れておくことにし、学校が終わってから友人に渡そうと思っていた。ところがその先輩がオーブンからピザを取り出してしまい、オーブンの横の冷蔵庫にしまい直したそうだった。そのピザはそれぞれ大きさが異なり、アヤワスカの含有量も大きさによって違っていたので、先輩に順序を変えてしまい直されてしまったことは少し面倒だと思った。もちろん冷蔵庫を開けて実物のピザを見れば大きさが違うのでわかるかと思ったが、大きさの違いは微妙なものだったので厄介だと思ったのである。先輩は悪気があってピザをオーブンから取り出したわけではなかったので、先輩を責めることはしなかった。実際に冷蔵庫に入ってピザを見ると、なんとか違いがわかったので、学校が終わるのを待つのではなく、今すぐに友人のところに持っていこうと思った。すると後ろから、中学校時代にお世話になっていた数学の女性の先生から声を掛けられ、先生は「美味しそうなピザね」と笑顔で述べた。てっきりピザを学校に持ってきたことで怒られるかと思ったが、どうやら先生は調理実習か何かで自分がそのピザを作ったと思っているようだった。渡り廊下を歩いて教室に向かっていると、1階の教室の窓が開いていて、教室の中にいた数人の先輩たちに声を掛けられた。私は先輩たちとは仲が良かったので、先輩たちは教室から、私は教室の外の渡り廊下から中庭に出て、そこで少し話をすることにした。先輩たちと話に盛り上がっていると、ピザを早く届けなければと思い、先輩たちとの話を切り上げるように、うまく自分の方から話をまとめ上げていくことをして、教室の方に向かった。そのような夢を見ていた。

アヤワスカが登場する夢を見るのは久しぶりのように思う。しかも学校を舞台にしてアヤワスカが登場し、それがピザの中に入っているという設定もまた面白かった。そう言えば、アヤワスカをお土産としてもらったイベントでは、特にサイケデリクスは何も摂取していないながらも、深い変性意識になる瞬間があったのを覚えている。夢の中で変性意識になった時、そこで夢を見ている自分の意識状態はどうなっているのだろうかと気になった次第だ。これもまた探究しがいのあるトピックかと思う。フローニンゲン:2024/2/5(月)05:13

12051. サイケデリクスを取り巻く世界のニュースより

心とリアリティは相互に影響を与え合っている。心をより良きものにしていくことは、リアリティをより良きものにしていくことにつながっていくはずである。心をより良きものにしていくための実践上の見取り図として唯識思想は大きな役割を果たす。仏教心理学と形容されるこの奥深い心の理論をこれからじっくり紐解いていき、自分や他者の心を少しでもより良きものにしていく試みに従事したいと思う。まずは唯識思想を用いて自らの心の在り方を絶えず見つめ直そう。唯識思想を用いた自分の心の観察は、これからのサイケデリック・セッションにおいても非常に有意義であろう。唯識思想は単に垂直的な心の成長実践の枠組みとして活用できるだけではなく、シャドーワークにおける広範な発想と技術を授けてくれるものでもある。学術的にも研究のしがいがあり、実践的にも深い価値がある思想体験を他に自分は知らない。一生涯をかけて探究するのに値するこうした思想体系と深層的な出会いを果たせたことを心の底から喜びたい。

先ほど、世界のサイケデリクスを取り巻く情報と考察が掲載されているニュースサイトの記事を眺めていると、カナダとマサチューセッツ州でここからより大きな動きが見られそうだと感じた。とりわけ後者に関しては自分が住むことになるかもしれない場所でもあるので、サイケデリクスの取り扱いに関する法規制の最新動向には目が光る。どうやらオレゴン州やコロラド州の流れを汲んで、マサチューセッツ州も州全体としてサイケデリクスの脱犯罪化を超えて完全合法化の方向に向かっているようだ。アメリカの法規制で面白いところは、連邦政府の法律と州の法律、さらには市の法律と3層構造になっている点である。逆にこの構造が複雑性を生んでいるとも言えるが、今のところマサチューセッツ州としてはサイケデリクスは違法なのだが、すでにマサチューセッツ州の中のいくつかの市はサイケデリクスの脱犯罪化の取り決めをしている。それこそハーバード大学やMITのキャンパスがあるケンブリッジ市では、すでにサイケデリクスは脱犯罪化されているのである。ここからマサチューセッツ州がどのように動くかは引き続き目を光らせてウォッチしたいと思う。

その他のニュースで目を引いたのは、AIを活用したサイケデリック研究に関するものだ。何やらAIの力を借りて、治療に役立つ数千ほどの新しいサイケデリック分子が発見されたとのことである。かつてアレクサンダー・シュルジンが長年をかけ200ほどのサイケデリック分子を発見していった歴史があるが、今となってはテクノロジーの力を借りて、AIを活用して数千もの新たなサイケデリック分子が発見される時代を迎えたことに驚く。もちろん臨床を含め、ここからそれぞれの分子に関する研究が進んでいくのだろうが、サイケデリックビジネスに乗り出してくる企業がこれから増え、そこでの研究開発においてもAIの活用はもはや不可欠と言えるだろう。新たな分子構造が発見され、新たな製品が誕生したとしても、自分は天然系のシロシビン・マッシュルームを自ら育て、それを摂取していくことを続けていくような気がする。そこには自らのサイケデリクスに対する価値観や思想が反映されていると言えるだろう。こうした価値観や思想を育んでいくことが、自分なりのサイケデリクスとの良好な付き合い方を模索していく上で非常に重要なのではないかと思う。フローニンゲン:2024/2/5(月)06:14

12052. サンスクリット語の仏典データが保存されている
貴重なウェブサイト   

早朝の夢をもとに、サンスクリット語の仏典を読むことに向けて意欲がさらに高まっており、将来の研究に向けた先取りとして、実際にサンスクリット語の仏典を入手できるのか調べていた。どこでそれが購入できるのか、あるいは閲覧できるのかを調べてみたところ、幸いにも2つの有益なウェブサイトに行き着いた。1つはドイツのゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンのサンスクリット語の資料の保存プロジェクトである。そこにはインド仏教のサンスクリット原典のみならず、六派学派を含めたインド哲学のサンスクリット語の原典をウェブ上から閲覧・ダウンロードすることができる。これは非常に貴重なプロジェクトだと思うので、URLを記録しておこう。それは「Göttingen Register of Electronic Texts in Indian Languages: https://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil.html」である。見ると嬉しいことに、アサンガやヴァスバンドゥの残したサンスクリット語の原典があり、早速いくつかを閲覧してみた。先日の第25回のシロシビン・セッションの中で、サンスクリット語とパーリ語の言葉がまるで大きな滝のように自分の脳内に流れ込んでくるという体験をしていたからか、それらの原典がどこか親しみがあるように思えた。もちろん今の自分は意味は解読できないのだが、なんとなく心の深いところで、あるいは魂の次元では意味内容を感じ取っているようなのだ。学習の初期にこうした下地があるというのはとても喜ばしいことで、ここからはどこかのタイミングで文法や単語の学習に本格的に入っていくことにしたい。

仏典の数は1000から3000ほどあると言われており、それは経典のみならず、律蔵や論蔵などを含んでの数となるが、非常に膨大である。残念なのは、サンスクリット語の原典が全て残っているわけではなく、インドにおいては他国からの侵略などによって原典が燃やされてしまったり、廃棄されてしまったという歴史がある。中国はチベットと並んでとりわけ仏教の研究に熱心な国であったから、ひょっとしたらサンスクリット語の原典が残っていないものは漢訳書を読み解くことも検討した方がいいかもしれないと思った。漢訳であれば、漢字に親しみのある自分にとってさほど読解に不便はないだろう。また、チベット語は元々サンスクリット語の仏典解読のために開発された言語とのことで、両者の言語の類似性が高そうなので、サンスクリット語を学んだ後かそれと並行してチベット語も学べば、さらに原典解釈の幅が広がりそうである。ここからは唯識思想に関する原典と英語以外の翻訳書を読みながら、文化多角的に唯識思想の理解をとことん深めていきたい。備忘録がてら、もう1つ見つけたウェブサイトのURLも記録しておこう。それは「Digital Sanskrit Buddhist Canon: https://www.dsbcproject.org/」となる。フローニンゲン:2024/2/5(月)07:02

12053. 唯識思想から紐解く書物の読解

ある1冊の書物のあるページの中で、自分がどのセンテンスに注目するかは、自分の阿頼耶識の種子によって決定されているのだと改めて気づかされる。読書会をしていると気づくのは、参加者によって各人様々な箇所に注目をして読解を進めており、それはとても興味深く、その現象を生んでいたのは阿頼耶識に所蔵されている種子に影響を受けていることが明確になった。書物のどこにどのような理由で注目したのかを内省してみると、阿頼耶識に所蔵されている種子の性質がわかり、必要であればその種子を育むことも手放すことも可能になってくるのではないかと思う。

また、自分の関心を引く形で発見された書物の中の言葉やセンテンスは、その瞬間における自分に他らないと気づくことが極めて重要である。それが解放の道である。私たちは、書物の中のある言葉やセンテンスを対象物として自分の外にある存在とみなす傾向にある。しかし唯識の思想を借りればそれこそが歪んだ世界認識なのであり、それが苦の原因なのだ。端的には、書物の中で見出された言葉やセンテンスは私たちの意識の中に存在し、私たちの意識そのものと非二元なのである。つまり、見る主体と見られる客体の同化がそこに生じているのだ。そこにそうした本質的な現象が本来見られるにもかかわらず、私たちは見られる対象と見る私たちを分離させてしまう。まさにそれこそが「デカルト劇場」の中で常に起こっていることなのだ。見る主体と見られる客体を分離する形で、二元的世界の中で生きることをデカルト劇場の世界で生きることだと捉えることができる。そこには解放はなく、絶え間ない苦の生成があるだけである。デカルト劇場から脱却し、種々の苦から解放されていくためには、兎にも角にも見る主体と見られる客体の一致によって現象世界の全てが生じていることを理解しなければならない。その正しい世界の見方、すなわち正見を持って、常に見る主体と見られる客体の非二元を意識して生きることが、少しずつ苦からの解放につながっていくだろう。正見を持って、正しい行為を続けていくこともまた重要で、それを通じて阿頼耶識が浄化され、阿頼耶識によって左右される物の見方がより浄化されていくはずである。そのようなことを考えながら唯識思想のテキストの読解を進めていた。フローニンゲン:2024/2/5(月)08:32

12054. 中道を心掛けた生き方       

時刻は午後5時を迎えようとしている。今日もジムで清々しい汗をかいてきた。最近は無酸素運動としての筋力トレーニングと有酸素運動としてのトレーニングが調和を成していて、その効果を実感する。どうやら無酸素運動の筋力トレーニングの後に有酸素運動を行うと、筋力の増強に一役買っているかのような効果を最近は感じる。今日のトレーニングでは、木曜日のパーソナルトレーニングに向けて、前回のパーソナルトレーニングで使わなかったマシンや器具を活用しながら、違う刺激を筋肉に入れていった。月曜日の自主トレーニングはあまり追い込み過ぎず、適度に筋肉に刺激を入れ、木曜日のパーソナルトレーニングの日にできるだけ追い込んでトレーニングをするようにしている。今のところこのバランスが上手くいっている。木曜日は筋力トレーニングの方に時間とエネルギーをより割くこともあり、月曜日は逆に有酸素運動に充てる時間とエネルギーを増やしている。実際に今日はローイングマシンとスキーマシンを合計で10分弱、ランニングマシンを20分強ほど活用した。ランニングマシンを終える頃には汗だくであり、デトックス効果も実感しながら、心肺機能も鍛えられ、トレーニングの終わりにはいつも気持ち良さを感じる。

筋力トレーニングも含めて、中道を心掛けた生き方。最近は仏教の言葉に感銘を受けることが多く、その言葉に従って日々の生活を送るように心掛けている。仏教には偉大な哲学と心理学があるだけではなく、倫理・道徳的実践指針が詰まっているところに魅力を感じ、仏教の研究だけではなく、もはや仏教を信奉し始めているかのような自分がいる。

求めないというよりも、求め過ぎないという中道を歩むこと。何かを求める心が生じた際には極端に走ることなく、節度を守って求めること。今の自分にはまだ求める心を完全に解放することはできないのだから。その歩みにも階梯があり、焦るのではなく、じっくりと歩みを進めていけばいい。とにかく全ての事柄において節度ある中道を歩むことを意識しよう。ここから日々仏教における意識哲学の研究を進めながら、日々の自分の全ての行為において中道が実現されているかを絶えず観察することから出発してみよう。フローニンゲン:2024/2/5(月)17:01

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