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いつから街は

いつから街は、「私たちの」街では無くなったのだろうか。

街の区画は、資本のある人や団体が買い上げて、モザイク状に所有権の境界線が張り巡らされている。
僅かに残された公園や緑地や公民館は行政が管理してくれてはいるが、自ら手入れできることはごく僅かだ。
私たちに残された自由な場所は自らの資金や信用で購入したひと区画の家だ。

駅前広場は利用の届出を出した時にだけ僅かに利用ができるがそれでもその瞬間には「私たちの」場所として開かれる。

私たちの街にはそんな開かれた駅前広場が存在した。再開発に伴って偶々出来た余白のような場所。

そこでは誰かがコーヒーを売ったり、靴磨き屋をしたり、自分の作品を販売したりした。
時には皆が集まってマーケットを開いたり、自分の新しい事業の説明会を開いたり、素敵な寄せ植えやベンチをたくさん置いて、そこで待ち合わせをしたり、ぼんやり佇んだりした。

そこで初めて自分の屋号を持って店を開いた者も多い。
商いと呼ぶには少し小さい。皆が行ったのは「小商い」だ。
それでもそこに集い店を構えた者同士で親しくなり、やがて仲間となり、また市場をやるために再び集った。
市場のときにはzineも作った。そういうのを作るのが得意なやつがいるのだ。文章を書いて皆んなに読んで欲しい者、得意な絵を描いて表紙や挿絵を飾った者、なぜ街に戻ってきたかを語る者、ここでもさまざまな個性がzineを彩った。

ある人がそこで哲学カフェをやろうじゃないかと言い出した。もう仲間になっていた人達はめいめいの力を持ち寄って高架下のこれから公道になるスペースでその会を催した。

別の街からはタップダンサーが仲間を連れて毎週即興の舞台を行った。日暮れから始まり、西陽に照らされた舞踏家達が光り輝き、音楽家は通り過ぎる電車や街の雑踏とともに楽音と音響のあいだを作り出していった。そして黄昏れを迎え、光と闇を皆で楽しんだ。繰り返すが毎週だ。

偶々通りがかったことからこの輪に入った者も多い。その時偶々声をかけたことからその後の生き方、過ごし方が変わった者もいる。
何しろ路上や駅前広場だから、誰かがふとした時に現れて、言葉を交わし、また違う機会に再会し、顔見知りになり、仲間となり、その輪はずっと広がっていく。
そうして街は「私たちの」街になっていく。

私もその「私たちの」中の一人だ。
やりたいことは頭の中にあったけれど、まさかそれを表現できるとは思っていなかった。このまま何となく時はすぎていくのだと思っていた。
でもそれを安全にできる場所で、さまざまな人と交流しながら、本屋をやりながら訪れる人と雑談を楽しむ実験を続けていった。社会や政治のことを気楽に話す機会を作っていった。
そうして、そのやりたいことが現実になり、人と交わることで私自身がすっかり変わってしまった。気づけば友達に政治思想史のゼミをやるようになっている。熱心な受講生もついてくれるようになった。
だから私はこの駅前広場やそれを作ってくれた志のある方達に感謝している。きっと様々な調整を経て成り立っているこの場所をいっときでも使わせてもらったことは幸運だった。

私たちの場所は、確かにあった。登戸駅前ミライノバという広場が。 

だから、その駅前広場が無くなってしまうことは本当に悲しく、残念だ。
本当に数台分の駐輪場に置き換えて良いのだろうか、と思う。

だからせめてその駅前広場があったこと、そこに集った人達の記憶をこうして書き留めたい。
そして叶うならば同じような、人が行き交う広場がこれから一つでも生まれることを祈っている。

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