真面目な人が馬鹿を見ない

「いっつもふざけとるお前らの成績がどうなろうとオレは構へん。ただな、真面目に勉強しとるヤツの邪魔だけはしてほしくないねん。やから授業中ベラベラしゃべるくらいやったら寝といてくれ。」

中学時代、教師から言われた言葉が今でも忘れられません。小学生のときからいつも人の注目を浴びることだけを考えて、落ち着きがなく授業態度が悪かったぼくは、この一言で「真面目な人が馬鹿を見ないこと」について真剣に考えるようになりました。

「良い成績をとる」というのがゴールだとすれば、そのプロセスである「授業」を私語によって妨害するということは、他の生徒に対してはもちろん、教師にとっても迷惑でしかないでしょう。

たださっきの言葉を言われるまでのぼくは、自分の振る舞いが他人に迷惑をかけているという意識が薄かったと思います。全くと言っていいほど周りが見えておらず、自分中心にしか物事を捉えられなかった、今振り返っても心が痛む人間でした。

そんなかつてのぼくでしたが、先の教師の一言は、とても胸に刺さり、強く記憶に残っています。それはなぜだったのか。理由については一向にわかりませんでした。

「お前らの成績がどうなろうとオレは構へん。」と面と向かって言われることは、中学生くらいの年齢にはけっこうショックが大きいのではないでしょうか。だからまだ覚えてるのかなと、なんとなく前までは思っていました。

今はまったく違うことが理由だと思っています。自分を非難されたショックなんてものじゃ全然なくて、「真面目に授業を受けている生徒が馬鹿を見ない」よう願った教師の強い想いに、ただ心を動かされたんだと思います。

昨日の話にもつながりますが、いまぼくたちが生きる世の中で、選択肢や機会を平等にするのはとても難しいです。かつてのぼくのように、試験に向けた授業をする教室という空間でさえ、半ば”無意識”的に学びの機会を不平等へもっていこうとする人間がいるのですから。

みんなの学びの機会を邪魔しないという意味においては、少なくともぼくは私語をすべきではなくせめて寝ておくべきだったでしょう。

「オレが黙ったからってみんなの成績が上がるわけちゃうやろ。ちょっとくらい喋ったからって関係ないって。」当時のぼくだったら、もしかしたらそんなことを言い出したかもしれません。ただ、そうはならなかった。

誰かがちょっとくらい邪魔したからって、結果は変わらないかもしれない。結局は本人の資質によるのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、何かに真面目に取り組む人が、不真面目な人の無自覚な暴力によって、その努力を阻害されることだけは避けたい。なにも考えず何でもありにするのは良くない。

冒頭の教師の痛烈な一言からは、そんな強い強い意志が感じられたのです。結果の如何にかかわらず、真摯に取り組む人間を応援するその姿に、ぼくは理屈を超えて、心の奥で強い衝撃を受けました。以来、その価値観を自分も大切にしながら生きてきました。

「立場の弱い人を積極的に支援しよう」とか、「恵まれる者には恵まれない者を助ける義務がある」とか、そういった方向の話をしたいのではありません。ただ、「みんながポジティブに影響を及ぼし合えたらハッピー!」くらいにしか考えていないのかもしれません。

自分の影響に意識的になるのは並大抵のことではありませんし、そもそも世の中が意識しにくい構造になっているのも間違いありません。ただ、みんなが自分の身の回りくらいは良い影響及ぼせたらハッピー!くらいに考えて、過ごせれば良いな!と思っています。

山脇、毎日。