選択肢をフラットにする

昨日の続き。鎌田安里紗さん(https://note.mu/arisakamada)といろんなことをおしゃべりする中で、「選択肢のフラット化」の話になりました。

どんなことについてでもぼくたちは、選択肢を”平等に”与えられているわけではありません。環境によって何かしらの制約を受けた選択肢の中から選ばざるを得ないのです。その前提を認めた上で、なお選択肢はできるだけ平等な方が良いというのが、ぼく自身の考えです。

エシカルと言われるような考え方について、何が正解/不正解かといった決め付けはしたくありません。ただ、そういう選択肢があるよっていうことを、もっと広めていきたい。今の現状じゃまだまだ多くの人に存在を知られていないから。というのが、話の大まかな流れでした。

正解の定義をしないといった姿勢は、一見すると逃げ腰のように思われるかもしれません。でも、ほんとうにほんとうのところ、考え方に正解はないと思うのです。ぼく自身が良い悪いと思うことはあっても、それが正解だとは思いたくないし、正解であってはいけないはずです。

ただ「定義をしない=なんでもあり」なわけでは決してありません。善悪の基準も持っていますし、それを伝えたい気持ちも山ほどあります。今の世の中で、ぼくたちが素敵だと思う小さな小さな声が、いつか多くの人に届き、りっぱ選択肢の一つになってほしい。存在を知った上で、判断してほしい。そう強く願うのです。

願うだけではいけません。小さい声をいっぱいに枯らし、大きな声を出せるように発声練習を怠らず、日々を自分らしく過ごすのみです。

山脇、毎日。