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「クルイサキ」#12

さくらのあらすじ
同級生の織田にから絵をもらってから、放課後の教室で織田と創作活動を共にしていることに青春を感じていたさくらだったが、織田からもうそれを止めてほしいと言われる。織田は卒業後にパリに留学し、集中して絵を描きたいということだった。さくらは猫にまでそのことを打ち明けるほどに心を痛めていた。

さくら 6

 冬休みが終わり、今年始めての登校の日だった。始業式が終わって長めの掃除を強要されたあと、織田が雑巾を片手に向かって来た。
「あけましておめでとう」彼はぎこちなく頭を下げた。
 彼がパリへの留学を告げた日以来、どこか彼に気後れを感じ、なかなか自分から彼に近づくことができなかった。
 年始の挨拶だけは、ちゃんとしよう。なにごとも最初が肝心だ。さくらは今年の運勢を占う一戦でも挑むように彼に対した。
「こちらこそおめでとう」意識しすぎたのだろうか、理解不能の挨拶を返してしまった。用意していた笑顔が引きつってしまった。
 きょとんとする織田が腹立たしくも思えてきて、織田がむずかゆい挨拶をしてきたせいだ、と全責任を彼に押しつけて、さくらは開き直る。
 さくらは冬休みのあいだに小説を書き上げていた。彼にそのことを告げるかどうか、まだ決めていない。
 伝えれば彼は必ず見たいといってくる。見せる気は毛頭ないが、完成したことは知っていてほしかった。彼の口から「おめでとう」と挨拶以外の感情をこの耳で聞きたかった。
「絵はできたの?」一旦、小説のことを胸に仕舞って訊いた。
「いや、冬休みのあいだ、全然進まなかった」
「そんなんで大丈夫なの」邪魔者がいなかったくせにとさくらは心のなかで悪態をつく。
「大丈夫、スランプの原因はわかっている」
 織田はさくらの表情をじっと見てきた「なに?」とさくらが訊いても織田は真面目な表情をして、なにも答えない。
「私の顔になにかついてる」
 すると織田は鼻の下を目一杯伸ばし、顎を出し、白目をむいた。織田の突然のヘンガオにさくらは笑ってしまった。
「なにその顔」頬が緩んでいるのを実感して、そして素直に笑えていることがさくらはうれしくて、笑ったまま顔が戻らない。
「いやいや君の顔にごはん粒がついているから負けられないと思って」そう言って織田は立ち去った。
 慌ててさくらはトイレに駆け込み、鏡を見てから、それが織田の嘘というのに気づいた。

 二月に入ると、もう寒さに抵抗する力は残っていない。鬱屈した思いが点けっぱなしのコタツの狭い空間に閉じ込められ、さくらの生気をまどろませる。にじんでいく視界では、目的意識もぼやけてしまって、さくらは向かうべき方向を完全に見失っていた。
 昨年中に推薦で大学に合格した。進学が決まって受験勉強からも開放されても、次の小説に取り掛かることはなかった。受験期間は勉強を言い訳にして、それが終わっても卒業して新生活に慣れてからだと、ペンを取らずにいた。
 それは自分を慰める言い訳だった。実際には単に創作意欲が湧かなくなっていた。それが本音だった。一つの小説を書き上げ、それで満足してしまった。織田との関係がうまくいかないのも、モチベーションの低下に繋がっていた。様々な遁辞が意志を鈍らせ、さくらを自堕落させる。
 さくらは冬眠に入るかのように夢のなかに織田を閉じ込め、現実逃避をした。思い通りになる世界へ、自らを導く。
 理想の世界はいつも心地よい。なにも障害はない。痛みもない。声を荒げるような怒りもない。すべてが思いのまま、この世界の創造主は彼女自身なのだ。
 この世界では織田はさくらの恋人となり、二人でふざけあって、体を寄せ合い、いろんな会話をする。常に織田は笑顔で自分のことを好きでいてくれる。そして二人は老いることもなく、幸せな日々がつづくのだった。
 それでも、世界の結末を創造し終えた彼女に達成感は訪れず、惨めな感情が最後には残る。
 この世界は生きていない。理想の世界を創造しても、彼女自身さえもそこにはいない。
 ちゃんと呼吸をしよう。
まるで真っ白な積雪に囲まれた異次元でさくらは微かな空気を味わっていた。呼吸を求めると自分のみぞおちのあたりで僅かに息ができるほどの空間に、落とし穴にはまったかのように放り出された。さくらは一つの細胞となって、体内に閉じこもり、さまよいながら、本能に誘われ、このポイントに来るべきして来たのだろう。ここは狭苦しいが、感覚を皆無にするような大胆さも持ち合わせていて、なかなか油断させてはくれない。張り詰めた緊張のなかで、脱力することも許されず、さくらはそこで本当に望むことを望むことしか許されてはいないことを悟った。
 歩くための足も、食欲を満たすための口も、光を認める目も、なにもかも失った。空虚な空間で何ひとつとして信じられる力がない。
 ここからなにを望めばいい?閉じた目を再び開くためには、なにを目的にすればいいのだろうか。
 愚かでひねくれている自分は醜い。後ろ向きで、思い通りにならないからとすぐに諦める、そんな姿は見たくない。
 目を開いたとき、希望に満ちて笑っている自分がいつもそこにいてほしい。
 だから、息を吸った。現実を生きるために、生命を蓄えようと大きく。そうすればそれから彼女は本当に信じられるものを手に入れることができるはずだ。

 さくらは突っ伏していたコタツから、抜け出した。窓を開けると、積もった雪が光を反射させて、さくらに届けさせてくれる。新しい空気が流れ出してきた。
 すると、視界にタロウが見えた。
 赤い首輪をして、こちらを窺っていた。さくらが呼び掛けると、立ち去ってしまった。さくらは上着をはおい、外に飛び出た。
 外は真っ白な雪が敷きつめられていた。小さな足跡が道路の先までつづいていた。
 さくらはその足跡に沿って走った。
 辿り着いたのは、以前にタロウと来た川辺の遊歩道だった。目印にしていた足跡は途絶えていた。
 さくらは何度もタロウの名を呼んだ。遊歩道を歩きながらタロウを探したが、見つからなかった。
 さくらは設えてあったベンチに腰掛けた。丁度、その場所は桜の木の真下で、見上げると、枝の隙間から空がのぞける。空に向かって白い息を吐き、それが視界の色と混じ合う。何度もそれを繰り返していると、一つの場面が頭に浮かんだ。
 その虚像は追いつくことのできない速さで、脳裏を駆け抜けた。その余韻から実像を捉えるためのプロセスを描いた。創作意欲がよみがえってきた。再び書けることを確信できた瞬間だった。
 目を閉じて、思案する。物語を展開する。
 さくらが設定を考え、主要人物の最初に頭に浮かんだのは織田だった。ただ織田を描くのは、さくらにはまだ筆力が足りないことを自覚している。その考えを取り下げようかと頭を巡らせているときだった。
 さくらを呼ぶ声がした。目を開いた。
 織田が目の前にいた。
 まだ理想の世界にいるのだろうか。視界を調節するように何度もまばたきをして、確認する。どれだけ繰り返しても映像はひとつしか映さない。これは現実の世界だ。
「こんなところで何してるの?」織田の声に懐かしさを感じた。促したわけではないのに、彼は隣に座った。
「あなただって、家遠いでしょう」隣の織田の顔をまじまじと見つめる。彼は特に驚いた様子も見せず、眩しそうに雪に反射した光を、目を細めていなしている。
「どう、小説の調子は?」あいかわらずさくらの質問には答えず、織田は言った。
「しばらく書いていない」
「そう。スランプなのかい」
「どうだろう。これが私の実力じゃないの」
 織田は空を見上げた。彼はなにか考えているときは必ず空を見る。
「この木って桜の木だよね」織田は頭上にあった梢を辿るように首を回して後方の桜の木を見た。
「よくわかったね」
「春になったら桜咲くのかな」
「多分」さくらは雪を乗っけた桜の木の枝を見上げる。
「桜の木って冬の寒いときに、眠りから覚めて活動を始めるんだ。だから冬のない場所には桜はないんだよ」
 織田は桜の木を見上げながら言う。さくらは横目で彼の表情を窺う。さくらは「だから」と、言って彼が言葉をつづけるのを待つ。
「冬の寒さがないと桜は花を咲かすことができないんだ」織田がさくらの視線に気づいたのか、さくらを見た。目の前で織田と視線が合った。
「さくらっていい名前だね」
 織田の表情が優しくて、彼を愛しく思った。照れてしまってふんわりと積もった綿雪に、身を埋めたくなった。さくらはベンチから立ち上がった。ベンチの後ろに回りジャンプして、梢の雪を跳ね上げる。雪が落ちて織田の頭上に降っている。
「かっこつけるの全然似合ってない」さくらは足元の雪をがむしゃらに飛ばした。織田は笑いながら、手で払うこともせず、それを受け止める。
 彼の長い睫が雪で白くなった。頭も霜雪になった。「玉手箱でも開けたの」と、さくらは言うと「いや、僕は花さか爺さんだ」と言って、織田は桜の木に雪を吹き掛けた。
 太陽に反射して白く輝く雪を乗せた桜の木は、本当に花を咲かせているように美しく見えた。
「日本にいるあいだに桜が咲いているところ見られるかな」眩しそうに目を細める織田はなにやら悲哀に満ちていた。
「いつ日本を発つの?」
「卒業式を終えて次の日に。それまでに咲いていると思う?」
「卒業式って三月の最初の方だよね。ちょっと難しいんじゃない」
「卒業式が終わったら確かめにこない」寒さのせいなのだろうか、織田の言葉は震えているように聞こえた。
「私を誘っているの」
「最後にこの場所でさくらを見たいんだ」今度は震えていなかった。織田の吐いた白い息が、小さな雲となって空に行く。さくらにはそう見えた。それを空まで見送り、紙飛行機が飛んでいるのを見守るかのように、長いあいだその空で飛んでいてほしいと願った。
 ただ、その小さな雲はもっと遠くまで飛んでしまったのか、その姿はもはや確認はできない。その代わりに太陽が雲の切れ間から顔を出して、どこからか飛んできた風花を照らす。さくらは目を瞬かせながら、空の届け物を一かけら、手のひらに吸い寄せた。それは一瞬でさくらの体内に溶けていき、思い出せば心を清涼にさせる記憶となった。


#13へつづく

「クルイサキ」#13

「クルイサキ」#1 序章
「クルイサキ」#2 さくら1
「クルイサキ」#3 死神(タロウ)1

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